「重度」とは、何を持って重度というのか

「対象は、軽度の人でしょうか?」「知的障害が重い子は利用できませんか?」などと、問い合わせを頂くことがあります。
特に障害の程度でお受けするしないは決めていませんし、実際、知的障害がある人も、知的障害が重度と判定を受けている人も利用されています。
だけれども、この仕事をしてから、「この人は重いな」「発達していくのも難しいな」と感じる人とは出会っていません。


私は、この仕事を始める前、いろんな方たちと関わってきました。
自分で立ったり、移動したりすることができない人。
自力で息をするのも難しい人。
食事を摂ることができない人、その食事だって、口からではなく、胃から直接。
「この子は、〇歳を迎えることはできないだろう」というようなことを言われた人もいました。
実際、悲しいお別れもしました。


そして強度行動障害を持つ人達。
自分の身体が変形してしまうくらいの自傷、自らの命を危険にさらすくらいの行動がある人もいましたし、知能検査が受けられない人、他人と接触できない人もいました。
知能検査を受けて、「重度」「最重度」と付くならまだよくて、「測定不能」という人達とも関わってきました。


ですから、今、この仕事をしていて、「知的障害が重度です」「言葉が全く出ません」などと言われても、正直、過去出会ってきた人達と比べれば、圧倒的に軽いですし、「どんどん治るじゃん」「可能性いっぱいじゃん」と思うのです。
あと、ちょっと話はズレますが、普通に電話やメールで相談や依頼してくる人で、「支援者から『あなたは自立できない。よくて障害者枠。本当は就労支援B型だね』なんて言われました」という若者たちの存在に、最初、衝撃を受けまくっていました。


普通に大学出ているような若者に、福祉的就労を勧めるバカがどこにいるって感じです。
しかも、その理由が「あなたは重いから」
この若者たちが重いんだったら…以下、上記と同じ。
「障害が“重い”」の重いという言葉に重さを感じません。
だから、「重い」というのは、支援する側の無力さを隠すための造語だと思うのです。


施設では、軽々しく「重い」なんて言えない人達、そういった言葉で言い表せないような人達の支援に携わっていました。
そのときは、治る方法も、治るということも知りませんでしたし、必死にギョーカイ本、ギョーカイ研修で学んでいました。
でも、快食、快眠、快便は整えると思っていたし、治せると思って仕事をしていました。
だって、自閉症の診断基準、3つ組の特性に、食事、睡眠、排便の障害は載っていなかったから。
つまり、ここは障害と関係ないところだから、変えられる部分という認識でした。


実際、快食、快眠、快便が整う人達がほとんどでした。
そして代々、経験則的に、この3つが整いだすと、本人の理解や学習が進むこと、心身共に安定していくことも知られていましたし、そう教わり続けていました。
いま、振り返ると、このヒトとして、動物としての基本、土台が整うと、心身、脳に余裕が生まれ、結果として理解、学習が進んでいくのだと思います。
心身&脳の余裕→理解が高まる→情報がキャッチできる→学習→適応力が上がる→ストレスが減る→心身&脳の余裕の好循環。


よく「発達の多様性」「症状、特性の表れ方も個性である」などと言われます。
だから、「治すなんて、おかしい」と主張する人もいます。
じゃあ、偏食は個性ですか?寝られないのは、その人の特性ですか?うんちが出ないのは発達の多様性?


安っぽく、一色単になんでもかんでも、「障害特性だ」「多様性だ」「それが資質だ」という人達がいます。
聞いてみると、「いやいや、それってただ未発達なだけ」「特性とか、個性とか、資質とかじゃなくて、そういう状態なだけでしょ」ということがほとんど。
HSP??
ただ感覚の発達に遅れやヌケ、未発達があるだけじゃないの。
「寝られないのも、理解してください!」????
夜遅くまで起きて寝られないのは、ただ寝られない身体の状態ということじゃないの。


ナントカの一つ覚えみたいに、すべてその人の資質や個性、特性にしてしまう。
「子どもの個性を大切にします」という人ほど、本人の視点が抜けている。
食べられないこと、寝られないこと、排泄がうまくいかないこと、そういったヒトとして、生きるものとして基礎基本の部分に生じている苦しさを、「それも、あなたの個性ね」と言われる子の気持ちを想像したことがあるのか、と疑問に思います。


本人が苦しんでいる状態が「その子の個性」だといえるのでしょうか。
その子の未発達な部分も、「その子の個性」だといえるのでしょうか。
苦しみ続ける個性、資質など、あり得ないし、本人以外が勝手に諦めるなよ、と言いたい。
少なからず、身体的な問題がない限り、快食快眠快便は整えることはできる。
そして、快食快眠快便が整えば、理解と学習が進み、適応力が上がっていく。
ということは、DSM-5で語られているように、知的障害の状態だって改善していく。
これは、私が施設で見てきた実態と合致するのです。


私が関わってきた、私が本当に重いと感じる人達が、適応力を上げ、知的の状態を改善していった姿。
その姿をそばで見てきたからこそ、今の仕事で関わる子ども達、若者たちは、みんなに可能性があると思いますし、どんどん発達し、治っていくと感じています。
医療機関や支援機関から「重い障害」と告げられ、悲壮感を漂わせて連絡をくださる親御さんもいますが、実際にその子とお会いすれば、育つ可能性、伸びる可能性に満ちた子、まだ持っている素晴らしい資質が表に出るまでに至っていない子と思うことばかりです。
そんな「重度」と言われた子ども達も、今では普通級で勉強、今では大学生、今では一般就労ってことになっています。


「重度」とは、何を持って重度というのか。
また、重度=発達しない、自立しない、良くならない、という意味になるというのか。
そして、他人が言った「重度」という言葉で、育む手を止め、支援と理解の世界に、我が子を委ねてしまっていいのか。
目の前の子が、自分で身体が動かせ、口から食事が摂れ、自ら息ができている。
その子の身体に、躍動する神経がある限り、どの子にも可能性があると思い、私は仕事をしています。

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