2019年3月8日金曜日

「治るか、治らないか」ではなく、「やるか、やらないか」

「発達障害が治るか、治らないか」
私の中では、前から結論が出ていました。
実際に治っている人達を見てきたからです。
そして同じように、全国にも結論が出ている人達がいます。
神経の発達障害なのだから、治るに決まっています。
治らないとしたら、神経がないか、すでに神経を発達させられる状態にない、つまり、生きていないか、になります。
ですから、「発達障害が治るか、治らないか」ではなく、「治すか、治さないか」。
いや、もっとシンプルに、「やるか、やらないか」、ただそれだけだと思っています。


世の中に、しかも同じ時代を生き、同じ日本に住む人達の中に、治っている人達がいるのです。
しかも、世界的な診断基準にも、「治らない」なんて書かれていない。
むしろ、介入によって、診断名が適さなくなることも、知的障害の状態が変わっていくことも、記されている。
ここまでくれば、「治らない」と主張する人のその言葉が、単に「やりたくない」「やれない」という風に聞こえてきます。


当事者の人は、先着一名様の思考のために、支援者、親の言っていた「治らない」が頭の中から出ていかないのでしょう。
治らないことで得られていた生活、小さな小さな自尊心、言い訳にできる理由を手放したくないがために、「治らない」と言い続ける人もいるでしょう。
途中から特別支援の枠に入った20代、30代の当事者の人達の中に、治ってラクになるよりも、自分の過去の後悔、辛かった歩みに押しつぶれないようにするために、「治らない」に必死にしがみついている人が少なくないようにも感じます。


親御さんで言えば、「治らないから!」のではなくて、「今さら、治ると言われても…」が真実のように感じます。
「治りません」という絶望の言葉を送られ、しかも、普通の子育てすらできないと、我が子も、親である自分自身も否定される。
そんな否定し続けてきた専門家の言う通りにしてきてしまった自分がいて、さらに今、その選択すら木っ端みじんに否定される。
それに耐えられないからこそ、「治らない」にこだわる、いや、「治らないでくれ」というような悲痛な叫びにすら聞こえてくるのです。


親御さんの中には、「軽度の子は治るんでしょ。でも、うちの子は、重いから」というような人もいます。
しかし、これは言い訳。
しかも、とても卑怯な言い訳。
だって、自分ができないのではなく、「この子が重いから」と我が子のせいにしているのです。
私は、この言葉を聞くと、とても悲しくなります。
自分の親に、「あなたが重い障害だから」と言われる子の気持ちを想像すると。
私が子どもなら、「僕のせいにしないで、少しでもラクになる方法を探してやってみてよ」と思うはずです。


ずっと言葉が出なくて、重度の知的障害と言われていた子。
実際に診断も受け、支援学校にも行った。
この親御さんの涙は幾度となく見た。
でも、この親御さんは「我が子が重度で言葉がなくても、学校から、支援者から見放されていたとしても、私がしっかり育てていく。だって、私がこの子を信じなければ、誰が信じてあげるの。この子の可能性と明るい未来を」
そうやって、コツコツ育てられた結果、まだ知的障害はあるものの、一人の社会人として働く若者に育った。


こういった親御さんの姿を見るたびに、治るか治らないかの議論はクダラナイと思うのです。
だって、治るから。
「治らない」と言っている人は、やりたくないだけ、治らない方が良い理由があるだけ。
だったら最初から、「私はやりたくない」「できません」と堂々と言えば良いと思います。
やりたくない人、治りたくない人にまで、治ってほしいと願う人はいない。
少なくとも、私は1ミリもそう思わない。
我が子の発達の違いに気づいた親御さんと、その子どもの未来にとって迷惑だから、「治らない」という嘘を言うのだけは止めてくれ、と率直に思います。


私の事業の指針は、社会です。
社会にとっては、やれない個人を慰めるより、治る人が増えていく方が良いのです。
そのためには、やろうとする人、治ろうとする人を後押しするのが正しい道。
ですから、私は治す人、治りたい人と共に歩んでいきます。
治りたくない人に使える程、私は多くの時間も、気持ちも、志も持ちあわせていませんので。




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