「頑張ったから」ではなく、適応を望まない心身が『二次障害』という表現をしているのだ
私が出会ってきた人達の中に、頑張ったために心身を病んだという人はいなかった。
心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。
「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。
おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。
細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。
環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。
より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。
受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。
「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。
「〇〇ができるようになりたい」
「この目標を達成したい」
これらも、高度な環境適応といえる。
頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。
絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。
頑張ることは、心地良い。
頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。
だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。
支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。
支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。
信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。
「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」
しかし、現実は違う。
ただの偏見、ただの解釈の誤りである。
頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。
環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。
ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。
だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。
だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。
「普通になりたい」と子どもが言う。
「仕事して自立したい」と若者が言う。
すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事しても続かないし、あなたには支援を受けて生きる方が合っている」と制止が入る。
自分が心地良く描いた目標、理想の環境へ向かうことを止められる。
つまり、環境適応を人為的に止められるということである。
心身が一致して、環境適応を目指し動き出している。
心は、支援者からの言葉で抑え込められる。
しかし、すでに動き出している身体、エネルギーはどうだろうか。
せっかく一致していた心身が離れ、身体だけが動き続ける。
行き場を失ったエネルギーが、自傷、他害、パニックという形で消耗される。
普通になりたい子どもが、特別支援の中に入れられると、心を病む。
働いて自立したい若者が、福祉の中で頑張らなくてもできる仕事をすると、心を病む。
頑張らなくて良い環境の方が、心を病ませる。
何故なら、身体が適応を始めてしまうから。
長く特別支援の中にいた子どもは、特別支援適応を始める。
長く福祉の世界にいた若者は、福祉適応を始める。
「自分の居場所はここじゃない」と思い続けても、長らく特殊な環境にいると、身体の方が先に適応を始めてしまう。
心は望んでいないが、身体が適応してしまっている状態。
「私には支援が必要です」「一般就労は無理です」「社会の理解があれば」と言い、言葉通りの環境に身を置いているのにも関わらず、心が晴れず、ついには病んでしまっていく人達。
その人達は、ただ言葉で心を押し込めているだけで、本当は心の中でこの環境に適応することを拒否している。
動かしたい身体が動かない。
まさに鳥かごの中にいるような心は、変わらない風景を眺め、寒々しく凍えていく。
主体性のある頑張りの機会が奪われると、心身を病む。
主体性を奪われた頑張りを強要されると、心身を病む。
本来、主体的な頑張りは、心身を解放させ、伸びやかな発達、成長へと繋がっていくのだ。
「頑張ると二次障害」の実情は、主体性を奪われた環境に対する抵抗と、「適応できず」という自然治癒力の表れである。
心身を病んだ人というのは、むしろ、頑張ることを止められた人達。
「頑張りたいけれども、頑張れない。頑張らせてくれない」という叫びが心を蝕み、向かう場所を失ったエネルギーが身体を滅ぼしていく。
おぎゃあと生まれた瞬間から、いや、精子と卵子が出会った瞬間から、ヒトはより良い次の瞬間を求めて歩み続ける。
細胞を分化させ、神経を伸ばし、環境に適応するための身体を作り上げていく。
環境に適応できるというのは、より良く生きることに繋がる。
より良く生きるために、環境からの刺激を受け取れる感覚器を育み、対応できる動き、身体を育む。
受精した瞬間から命が尽きるその瞬間まで、より良く環境へ適応しようと、ヒトは進化、発達、成長を続ける。
「頑張る」というのは、本来、心と身体が同じ方向を向く、とても心地良いことである。
「〇〇ができるようになりたい」
「この目標を達成したい」
これらも、高度な環境適応といえる。
頭で思い描いた目標、理想という環境へ、身体を適応させていく。
絶えまなく続く身体の進化に、心が一致する瞬間。
頑張ることは、心地良い。
頑張ることは、心身を一致させ、伸びやかな発達、成長を促す。
だから、頑張ることで心身が病むことはあり得ないのである。
支援者は「頑張ると、二次障害になる」と言う。
支援を受けさせるための脅し文句として使っている者もいれば、本当に信じて疑わない者もいる。
信じて疑わない者は、先人から与えられたフィルターを通して、心身を病む当事者を見たに違いない。
「ああ、やっぱり、頑張ると二次障害になる」
しかし、現実は違う。
ただの偏見、ただの解釈の誤りである。
頑張ったから二次障害になったのではなく、その人は頑張れなかったから、心身を病んだのだ。
環境に適応できなかったから、心身を病んだのだ。
ヒトは頑張って進化を求める動物であると同時に、適応を目指す動物でもある。
だから、頑張ろうとしているのを止められると、身体を病む。
だから、適応したくない環境に適応し始めると、心を病む。
「普通になりたい」と子どもが言う。
「仕事して自立したい」と若者が言う。
すると、「普通になんかならなくて良い」「一般の仕事しても続かないし、あなたには支援を受けて生きる方が合っている」と制止が入る。
自分が心地良く描いた目標、理想の環境へ向かうことを止められる。
つまり、環境適応を人為的に止められるということである。
心身が一致して、環境適応を目指し動き出している。
心は、支援者からの言葉で抑え込められる。
しかし、すでに動き出している身体、エネルギーはどうだろうか。
せっかく一致していた心身が離れ、身体だけが動き続ける。
行き場を失ったエネルギーが、自傷、他害、パニックという形で消耗される。
普通になりたい子どもが、特別支援の中に入れられると、心を病む。
働いて自立したい若者が、福祉の中で頑張らなくてもできる仕事をすると、心を病む。
頑張らなくて良い環境の方が、心を病ませる。
何故なら、身体が適応を始めてしまうから。
長く特別支援の中にいた子どもは、特別支援適応を始める。
長く福祉の世界にいた若者は、福祉適応を始める。
「自分の居場所はここじゃない」と思い続けても、長らく特殊な環境にいると、身体の方が先に適応を始めてしまう。
心は望んでいないが、身体が適応してしまっている状態。
「私には支援が必要です」「一般就労は無理です」「社会の理解があれば」と言い、言葉通りの環境に身を置いているのにも関わらず、心が晴れず、ついには病んでしまっていく人達。
その人達は、ただ言葉で心を押し込めているだけで、本当は心の中でこの環境に適応することを拒否している。
動かしたい身体が動かない。
まさに鳥かごの中にいるような心は、変わらない風景を眺め、寒々しく凍えていく。
主体性のある頑張りの機会が奪われると、心身を病む。
主体性を奪われた頑張りを強要されると、心身を病む。
本来、主体的な頑張りは、心身を解放させ、伸びやかな発達、成長へと繋がっていくのだ。
「頑張ると二次障害」の実情は、主体性を奪われた環境に対する抵抗と、「適応できず」という自然治癒力の表れである。
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