2018年11月14日水曜日

学校に教科書がないわけはない

公立の小学校、中学校の教科書は無償です。
無償の教科書を、「支援学級の子だから」ということで、最初から数に入れない、購入しないということはないでしょう。
特にこのご時世、「障害があるから、その子たちの分は購入しませんでした」なんてことはあり得ないし、教育委員会もツッコミを入れられるようなリスクは取らないはず。
ということで、子どもに教科書が渡されない、というのはおかしいですね。


学校教育法附則第9条には、特別支援学校、支援学級において、適切な教科書がないなど、特別な場合には定められた教科書以外の使用が許されることもある、と記されています。
教科書を使わなくても良い教育と、「教科書を購入しない」「教科書は必要ない」は別の話だと思います。
実際のところ、教科書を使わない学校もありますが、教科書自体はある、というのがほとんどのはず。
施設で働いていたとき、支援学校に通っていた子ども達も教科書ありましたもん。
毎年、卒業式の日に、1ページもめくられていないままの教科書6年分、持って帰ってきてましたから。


「教科書をくれない」という話は、当地の相談でよく聞きます。
いやいや、教科書使わないんだったら、何を勉強しているのって訊いたら、当地御自慢の構造化支援。
ブースの中で、ワークシステムを使い、簡単な計算、文字のプリントをやる。
いやいや、より良く学ぶための構造化された支援なのに、構造化された支援を使うことメインじゃん、6年間、ひらがな、足し算引き算でおしまいですかってことも。


どうして教科書をくれないのか尋ねると、「知的障害があるから」「発達障害があるから」と返ってきます。
知的障害も、発達障害も、教科書で学べない根拠にはなりませんね。
中には、教科書で学ぶことが難しい子もいるでしょうが、支援級にいる子全員が、ということはないでしょう。
教科書で学べる子もいれば、教科書以外で学んだ方が良い子もいる。
それが普通です。


教科書をくれない、使わないという学校とはやりあってきましたが、明確な根拠を述べられるところはありませんでしたね。
先ほど述べたように、「障害があるから」の一点張り。
で、そういうところに共通してみられるのが、教科書を使っている子がいない、ということ。
教科書で勉強できる子、勉強した方が良い子もいるのに、その子すら使っていない。
つまり、これって予防線を張っているということ。
一言で言えば、教師の怠慢。


クラスに教科書を使っている子が一人でもいれば、「うちの子も」と当然なる。
そういった声を封じるためにも、みんな使わない。
で、そんな本音は言えないから、「教科書よりも」とか、「障害があるから」とか言っているだけ。
結局、めんどくさいんでしょ、こっちで教科書、こっちでプリントが、こっちで身辺スキルが。


特別支援教育とは、個々がより良い学びができるよう保障するものだったはずです。
じゃあ、みんながいる教室内では刺激が多くて勉強ができない子のニーズは?
少人数で刺激のない環境だと、しっかり学ぶことができる子のニーズは?
そういった子が支援学級に在籍していて、もし「うちのクラスは教科書を使いません」という教師が担任をしたら…。
実際、教科書を配られない学校があり、教科書で学べる力を持った子達も、衝立の中で簡単なプリントをやって、あとは自由時間みたいなことが起きているのです。


「教科書を渡されない」という出来事は、「教科書がない」のではなく、「渡さない人がいる」ということでしょう。
前例主義だから、前年度の担任が使わなかった教科書を持ちだすのは、同僚、管理職、親たちを刺激するからひっこめる。
大学の同級生たちもよく言っていました、「はりきって頑張ろうとすると、新しいことをすると、横やりが入る」と。
でも、そう言っていた同級生たちも、しっかり染まって、「どうせ足を引っ張られるだけだから、何もしない。前年度通り」となっている。
で、結局、そういった同級生たちも中堅になり、若手の足を引っ張るようになる、自分が頑張っていないのがバレるから。
こうやって文化は引き継がれる。


まあ、話を戻すと、学校に届いているはずの教科書を、子どもに、家庭に配っていないだけ。
将来の自立のため、いろんなリスクを減らす要因として、小学校4年生レベルの学力を身につける、というのは有名な話。
その大事な学びの教科書を配られない、使おうとしないっていうのは、それだけで大変な選択をしているということになります。
大袈裟に言えば、子どもの将来を左右しかねない選択を本人でも、家族でもない人間がやっちゃっている、というのが現状です。
しかも、その人間は、大人になった子どもを見るわけでも、保護するわけでも、食べさせてくれるわけでもない。
私が一番憤りを覚えるのは、ここ。
安易に、「教科書使わない」「プリントで学習するから必要ない」「勉強よりも、生活スキル、社会性」などと言うのが許せません。


いま、教科書が使えない、理解できないのなら、それができるように育てなよ、と思います。
無償だから、配られるものだから、使わなくても良いことが認められているから、そんな気持ちで教科書を棚の奥にしまっているように感じてしまうのです。
教科書を貰えない親の気持ちを想像したことがあるのか。
もし自分の子が、全国の子ども達、元子ども達が学び、身に付けている教科書で学ぶことを認められなかったら、それを「はい、わかりました」といえるのだろうか。
私にも子どもがいるが、ちゃんとまずは教科書の内容をしっかり身に付けて欲しい、と願っている。


教科書の問題の本質は、教師の怠慢だと思います。
一人ひとりに合わせた学びを提供できない怠慢。
子どもの将来を左右しかねない判断をしていることに気が付いていない怠慢。
就学時に出された知能検査、診断名のまま、6年間、3年間を過ごさせる怠慢。
親御さんに、教科書を使わない理由をきちんと説明できない怠慢、合意形成ができるようコミュニケーションを取らない怠慢。
教科書を使うよりも、子どもがより良く成長した、という実感を持たせられない怠慢。


私は特別支援教育に期待していたし、否定しない。
でも、こういったことが起きると、どうしても「支援学級がいいですよ」とは言えなくなる。
だから私は、支援級在籍の子は普通級で学べるよう後押しするし、最初から普通級に行ける可能性がある子は、そちらを勧めます。


こうやって教師の怠慢と結論付けた私ではありますが、親の方にも怠慢があると思います。
それは「教科書が欲しい」と訴えた親御さんではなく、「支援級だから仕方ないよね」「問題起こさず、楽しく学校に行ってくれればいい」と声に出してこなかった親御さん。
再三言いますが、小学校4年生の学力が大事なのです。
もしその学力が身についていなかったら、あとから自分で学び直さないといけないのです。
学校に通っていた9年間、12年間で身につかなかった学力は、いつだれが教えていくのでしょうか。
学校卒業後、自立できないのは、障害だけのせいでしょうか、本人の問題だけでしょうか。
ですから、みなさん、もっと教科書にこだわった方が良いと思います、声を挙げるべきだと思います。


特別支援教育から漂っている怠慢の空気は、親御さんが作っている部分もあると思います。
期待外れの特別支援教育ではなく、子ども達が一人ひとりに合った教育の場に変えるのは、親御さんと社会の声です。

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