「できない現実」と「できるはず」の狭間に生きづらさが存在する

私はいつも「この子の、この家族の未来が少しでも良くなってほしい」と想い、仕事をしています。
実際に子どもと関わるときも、親御さんと発達援助の方法を考えるときも、いただいたメールに返信するときも。
「ちょっぴり成長できたな」「こうして子育てしていけばいいんだな」「気持ちがすっきりした」「少し元気が出た」
受け取り方は人それぞれでも、何か前に進む力の一つになれれば、私は嬉しく思います。


発達障害の方達と接していると、皆さん、治りたいという想いを持った人達なんだと感じます。
身体、機能障害の方達とは異なり、なんとなく、漠然とした、言葉で表せないような違和感や生きづらさを抱えている。
その掴めそうで掴めない、見えそうで見えない存在から解放されたいという想いをひしひしと感じます。
ですから、現状維持や保護された環境に身を置くと、皆さん、どんどん病んでいくのだと思います。


親御さんの中には、今はしゃべらないけれども、知的障害があると判定されたけれども、コミュニケーションが成立していないけれども、「この子は、ちゃんと理解していると思う」「この子は、普通級で学んでいける」などとおっしゃる方達がいて、十中八九正しかったりします。
こういった親御さん達は、感じることができています。
我が子の漠然とした違和感と、治る未来を。


生きづらさとは、感覚的なもの。
もちろん、何かができない、うまくいかないという行動の結果から生きづらさを感じます。
しかし、単に「〇〇ができない」のではなく、「〇〇ができると思えるんだけれど、できない」というギャップ、違和感に生きづらさを感じているのだと思います。
だからこそ、支援が一番に向かう先は、本人の気持ちであり、違和感からの解放。


治りたい本人がいて、治したい親がいる。
なので、その気持ちに添うのが支援というもの。
「少し治ったな」「一歩でも、治る方向へ進んだな」
そんな感覚を得られることが、支援の存在意義だといえます。


世の中に、治る人も、治る知見も、増えてきました。
それを見て、必死になって治そうとする人も出てきました。
しかし、中には気持ちを横に置いた、発達援助をされている人がいるような気がします。
発達援助と名を変えた行動変容。
「ここに発達のヌケがあるから、こういった動きを続けよう」
「腰を育てる遊びをどんどんしよう」


治るには、対話が必要です。
子どもの場合は、親子の対話であり、大人の場合は、自分の心、身体との対話です。
対話があるから、自らの発達、成長を、そして心地良さを感じられ、より良いアイディアへと発展していけます。
対話は言葉ではなく、心を介した交流。
心の声を聞かずして、本当の発達援助は行えないと思います。


周囲から見れば、その子の「できない」「困った」をどうにかしようとするもの。
でも、その子の生きづらさに心を傾けることも大事だと思います。
「どうして生きづらさを感じているのだろう?」
「何がクリアされれば、生きづらさから解放されるだろう?」
そういった問いを持ち続けることも必要です。
すると、ただの行動変容ではなく、ただのトレーニングではなく、発達援助になります。


生きづらさの正体である「できない現実」と「できるはず」のギャップ、ズレ。
そのズレこそ、本人の生の声であり、その人の発達が向かいたい先。
発達を援助するとは、その人の気持ちと発達が向かいたい方向へと後押しすることをいう、と私は考えています。


世の中に、より良い未来を願わない人はいません。
特に発達障害の方達の一番の願いは、物質的なものより、違和感からの解放であり、治ること。
そのために私は、気持ちが前に向かうこと、治るに近づいた感覚を得られることを願う言葉、行動、雰囲気を選んでいます。

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