「選ばせない」じゃなくて、「選ばれよう」でしょ
「てらっこ塾を利用するな」「あんな、おかしい人間の支援なんか受けるな、相談するな」「治るなんて、詐欺に決まっている」と、支援者たちが言うのは、何とも思いません。
「あなたの子は、一生涯支援が必要です」
「頑張らせると、二次障害になりますよ」
「普通級には行けません。良くて支援級です」
「知的障害がなくなることはありませんよ」
そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。
一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。
縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。
そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。
これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。
支援者たちが、そのように言うのはわかります。
自分達を守るために仕事をしている人達だから。
でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。
「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。
もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。
でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。
だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。
「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。
来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。
止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」
意味不明ですね。
本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。
この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。
教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。
たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。
身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通級で堂々と学校生活が送れるようになった。
良い方向へ予想が外れたなら良かったでしょ。
結局、「田舎特有の公務員偉いんだぞ、民間よりも」と、自分たちが何年もかけて解決できなかった問題を、家庭での取り組みで解決してしまったから面白くないだけ。
なんとかコーディネーターは、学校内で権限があるのかもしれないけれど、民間人の私からしたら、どっかの知らないオヤジ、オバサンです。
私が提案したことに、家庭と一緒に取り組んだことに納得ができないのなら、「こっちの方が、良いアイディアです。取り組みです」と持ってくればいいだけのこと。
それができずに、ただ「止めた方が良い」「本人が頑張りすぎているから」なんて言うだけでは、社会人として相手にされませんね。
恨むのなら、自分たちの腕を恨んだ方が良い。
元はと言えば、ずっと必要だと言われ、受け続けてきた支援が、本人により良い変化をもたらさなかったのが問題の発端。
だから、私に依頼が来た。
しかも、本人は成長し、自ら「僕は支援はいらない。必要なのは運動とトレーニング。みんなと同じようにできるようになりたい」と意思表示している。
本人が受けたくない、必要ではないと言っているものを、「いいや、受けた方が良い」と言い続けるのは、たとえ子どもであっても、本人の意思をないがしろにすることであり、自由と権利を侵害しているといえます。
配慮や支援を求める主体は、学校の先生でも、専門家でもありません。
そこをはき違えている支援者が何と多いことか。
「あなたは支援が必要」は、他人の主観。
本人がいらないと言っている支援を押しつけるのは、人権侵害。
商売がたきがブーブー言うのは想定内。
言いたいヤツが勝手に言っていればいいだけだし、喧嘩は腕でするもの。
私のところを利用してほしくないのなら、自分たちが金太郎飴の支援から脱却し、 過去の先進地域を捨て去り、より良い支援、援助を学び、選ばれるようにすれば良いだけの話。
結局、早期から診断を受けようとも、療育を受けようとも、構造化しようとも、自立しないし、一生涯の支援だったら、今の親御さん達は別の道を探します。
一生涯支援を受け続けるか、発達のヌケや未発達の部分を探し、そこを育て直して自立を目指すのか。
こういった閉鎖的で、未だに数十年前の先進地域の幻影で支援している地域で事業を起ち上げたのは、別のアプローチを提示することで、お互い喧嘩して、切磋琢磨できたら、結果的に地域のためになると思ったから。
でも、相変わらず、「こんな良い支援があるぞ」という話ではなく、ただの悪口、妨害だけ。
ホント、レベルが低い。
しかも、上記のような学校の中からも、子どもの成長よりも、自分たちが主導権を握りたい、自分たちの教育が認められたい、という足の引っ張りがくる。
函館は住みやすいところで、海も山もあって食べ物が美味しく、好きな場所だけど、なんかがっかりすることばかり。
ちゃんとケンカすらできない。
子どもや家族を中心に討論ができない。
発達障害の人達が公共事業みたいになっている。
冬は雪が降って、外でランニングできないし、もともと暑いところの人間だから、南下したいな、なんて思うこともありますね。
仕事も、相談も、道外が増えたし、一年中走れるところで仕事を探そうかな。
満平さん、雇ってくれないかな。
「あなたの子は、一生涯支援が必要です」
「頑張らせると、二次障害になりますよ」
「普通級には行けません。良くて支援級です」
「知的障害がなくなることはありませんよ」
そんな風に言われていた子ども達、若者たちが、次々、予言を覆し、勉強ができるようになり、姿勢や動きが自由にできるようになる。
一般の高校に入り、一般就労し、支援がなくても、自分の力で生活ができるようになる。
縁日のくじみたいに、年齢や症状、知的障害の有無に関わらず、みんなスケジュール、みんな衝立、困ったらSSTと出てくる景品は同じもの。
そして、本人に変化が見られないと、「社会ガー」と十八番の責任転嫁。
これじゃあ、「利用するな」と言うくらいしかできないでしょう。
支援者たちが、そのように言うのはわかります。
自分達を守るために仕事をしている人達だから。
でも、学校の先生はそうじゃないでしょ。
「利用するな」は、学校の先生から言われることもあります。
もちろん、直接ではなく、利用してくださっている親御さんに対して。
でも、放課後、しかも親御さんの意思で利用しているものに、どんな権限があって、教員がモノ申すのか。
だって、家庭で習い事していて、それに対して、担任が「止めた方が良い」なんて言ってこないでしょ。
「あの塾、やめてください」「野球クラブは止めた方が良いですよ」なんて言わないでしょ、普通。
来年度を見据えた時期的なものもあるのでしょう。
止めた方が良い、という理由が、「本人が頑張りすぎていると思うから」
意味不明ですね。
本人の成長は認めるが、頑張りすぎているように感じるから、利用しない方がいい。
この言葉を教員の口から聞くと、悲しさは倍増しますね。
教員って、子どもの成長を願い、そしてそれを心から喜ぶ人達ではないのでしょうか。
たとえ、塾や放課後の習い事だったとしても、子どもが成長していく姿を見て、一緒に喜ぶのが教員じゃないのでしょうか。
身体面からのアプローチ、言葉以前のアプローチで、授業をしっかり聞けるようになり、成績が上がり、支援級へと言っていた子が、普通級で堂々と学校生活が送れるようになった。
良い方向へ予想が外れたなら良かったでしょ。
結局、「田舎特有の公務員偉いんだぞ、民間よりも」と、自分たちが何年もかけて解決できなかった問題を、家庭での取り組みで解決してしまったから面白くないだけ。
なんとかコーディネーターは、学校内で権限があるのかもしれないけれど、民間人の私からしたら、どっかの知らないオヤジ、オバサンです。
私が提案したことに、家庭と一緒に取り組んだことに納得ができないのなら、「こっちの方が、良いアイディアです。取り組みです」と持ってくればいいだけのこと。
それができずに、ただ「止めた方が良い」「本人が頑張りすぎているから」なんて言うだけでは、社会人として相手にされませんね。
恨むのなら、自分たちの腕を恨んだ方が良い。
元はと言えば、ずっと必要だと言われ、受け続けてきた支援が、本人により良い変化をもたらさなかったのが問題の発端。
だから、私に依頼が来た。
しかも、本人は成長し、自ら「僕は支援はいらない。必要なのは運動とトレーニング。みんなと同じようにできるようになりたい」と意思表示している。
本人が受けたくない、必要ではないと言っているものを、「いいや、受けた方が良い」と言い続けるのは、たとえ子どもであっても、本人の意思をないがしろにすることであり、自由と権利を侵害しているといえます。
配慮や支援を求める主体は、学校の先生でも、専門家でもありません。
そこをはき違えている支援者が何と多いことか。
「あなたは支援が必要」は、他人の主観。
本人がいらないと言っている支援を押しつけるのは、人権侵害。
商売がたきがブーブー言うのは想定内。
言いたいヤツが勝手に言っていればいいだけだし、喧嘩は腕でするもの。
私のところを利用してほしくないのなら、自分たちが金太郎飴の支援から脱却し、 過去の先進地域を捨て去り、より良い支援、援助を学び、選ばれるようにすれば良いだけの話。
結局、早期から診断を受けようとも、療育を受けようとも、構造化しようとも、自立しないし、一生涯の支援だったら、今の親御さん達は別の道を探します。
一生涯支援を受け続けるか、発達のヌケや未発達の部分を探し、そこを育て直して自立を目指すのか。
こういった閉鎖的で、未だに数十年前の先進地域の幻影で支援している地域で事業を起ち上げたのは、別のアプローチを提示することで、お互い喧嘩して、切磋琢磨できたら、結果的に地域のためになると思ったから。
でも、相変わらず、「こんな良い支援があるぞ」という話ではなく、ただの悪口、妨害だけ。
ホント、レベルが低い。
しかも、上記のような学校の中からも、子どもの成長よりも、自分たちが主導権を握りたい、自分たちの教育が認められたい、という足の引っ張りがくる。
函館は住みやすいところで、海も山もあって食べ物が美味しく、好きな場所だけど、なんかがっかりすることばかり。
ちゃんとケンカすらできない。
子どもや家族を中心に討論ができない。
発達障害の人達が公共事業みたいになっている。
冬は雪が降って、外でランニングできないし、もともと暑いところの人間だから、南下したいな、なんて思うこともありますね。
仕事も、相談も、道外が増えたし、一年中走れるところで仕事を探そうかな。
満平さん、雇ってくれないかな。
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