「問題行動は無視」は、半分あおい

「問題行動は無視」という標語は、腐るほど、耳にしました。
で、この「問題行動は無視」というのは、ある部分は合っていて、半分足りません。


自閉症児施設で、かつ、強度行動障害の人達の支援をしていましたので、問題行動と向き合うことが仕事とも言える状態でした。
問題行動に対して、その知識や技能がない、何ら手立てが浮かばない、というのでは、仕事ができませんし、何より自分の身を滅ぼすことにもなります。
ですから、その当時、良いと言われているものは、すべて学びましたし、有休は使えなかったので(そもそも存在していない!?)、休みをどうにかやりくりし、全国どこでも行って研修を受けました。


今から10年以上前になるその当時から、「問題行動は無視」という標語はよく耳にしていました。
でも、これは問題行動なら何でも無視すればいい、という話ではありませんし、大事な後半部分が抜けているのです。
問題行動は無視ししても、良くなることはありません。
いや、良くなることなんか、あり得ません。
私が施設で働いていたときも、そんなことをする人なんか、現場に一人としていませんでした。
もし、それをやっていたとしたら、支援者は死んでいます。


私も、臨時で急遽、いつもとは違う寮に入ったとき、ちょっと気を抜いた瞬間、ある利用者の人が後ろ向きに倒れ掛かってくることがありました。
その利用者は、体重100㎏オーバーで180㎝以上の大きな人。
その人の側を通った瞬間、倒れ掛かってきたので、そのまま、下敷きになりました。
一人勤務でしたし、持ち上げることも、抜け出すこともできない状態でしたので、こりゃあ、終わったかな、とも思いました。
でも、この利用者さんが男性だったから、助かった。


まあ、このように飛んでくるのは大男だけではなく、手も、足も、食器も、家具もです。
噛みつき、頭突きは日常茶飯事。
だから、現場の職員は、問題行動を無視しないし、そもそも単に「無視しましょう」という話ではなかったはずです。


私が学んだ知識としても、現場での経験としても、他人を巻き込む問題行動はコミュニケーションとして捉えます。
どういった意図を持ち、相手に向かって来ているか、その意図、伝えたいことを確認します。
そのとき、例えば、「喉が渇いた」「水が飲みたい」という要求の意図で、噛み突きを行っていたとしたら、噛み突かれて、すぐに水を手渡すのではなく、噛み突き自体には要求に応えるという反応はしないで(ここが無視)、コップを持ってくる、蛇口を指さしする、「ミズ」と言葉で言うように促す、といったように、適切な要求の仕方を教えます。
つまり、他人に向けられた問題行動は、コミュニケーションと捉え、その意図を分析し、適切な行動を教えていく。
だから、「問題行動は無視」は、部分的に合っていて、教える部分が表現されていないので足りないのです。


あと、問題行動と一口に言っても、状況や本人の発達状態によっても様々です。
上記のような他人を巻き込まない問題行動だってある。
たとえば、排泄物をいじったり、衣類や置いてある物を破壊したり、叫んだり、自傷したり、不適切なものを食べたり。
こういった一人で完結する問題行動は、背景に虫歯や病気が隠れていたり、睡眠や食事、栄養、トラウマ、フラッシュバックなどが影響していたり、感覚や内臓、身体、動きなどの発達課題をクリアするための自らの育ち直しだったりします。
当然、こういった問題行動に対処、直していくには、細かい分析と根気がいる指導、支援が必要です。


「問題行動は無視」が現実を表していないのは、時間を部分で区切れない入所施設の職員と親御さん、家族は分かっています。
逆に言えば、こんなことを信じるのは、現場を知らない支援者、情報を得ただけで勉強した気になっている支援者くらいなもんです。
というか、一般的な感覚なら、「無視しても意味ないでしょ」「ちゃんと教えなきゃダメでしょ」となる。
というか、特別支援に少しでも関わっているのなら、これだけ問題行動に困っている本人、家族、支援者がたくさんいるのだから、無視だけでうまくいかないのは、考えれば分かるはず。
問題行動を無視しただけで解決するなら、専門家はいらない。


「問題行動は無視」という言葉を聞くと、小学校のクラス目標を連想します。
先生役の専門家が、「問題行動は無視ですよ」と言う。
それを児童役の支援者たちが「分かりました」と言って、それに沿った行動をしようとする。
何故、それが正しいのかを教えない先生と、「先生が言ったから」と理由を深めていこうとしない児童。
そんな姿が、「問題行動は無視」と聞いただけで、実際にやってしまっちゃう支援者たちと重なります。


「問題行動は無視」もそうですが、他の療育方法でも、なんだか表面的な意味で捉え、しかもそれを頑なに信じ、実行していることが少なくないように感じます。
どうも支援者というのは、自分の頭で考えるのが苦手なようです。
誰か有名な先生が言っているから、正しいみたいな人が多すぎです。
多分、支援者の多くは、発達障害の人と部分的にしか接していないからでしょう。


学校や療育機関、児童デイなど、問題行動を無視していても、時間が経てば、子ども達は帰っていきます。
だから、「その時間だけでも」とか思って、無視し続けることができてしまう。
でも、家庭ではそうはいかない、入所施設も。


私が施設職員だった当時ではありますが、行動障害がある子ども達は学校に行っても、教室の隅に作られた小さな囲いで一日を過ごし、また移動や活動をするのにも、横に先生が付き、でも、一言も話さず、関わらず、そんな学校生活を送っていました。
いくら「無視しだけしても仕方がない」「ちゃんと学習、勉強させてください。正しいことを教えてください」と言っても、施設職員の言葉に耳を傾ける人はいませんでした。
学校で刺激のない時間、また関わろうとしても無視され続けた子ども達は、いくら施設で正しいことを教えようとしても、一日の感情を爆発させるだけで、そしてその爆発し散らばった感情、心身を拾って集めるだけで、学びが入る余地がなかったのです。


あるとき、研修で招かれた講師が、エラソーに行動障害の支援の仕方について語ったのです。
でも、その人に訊いたら、家族に発達障害、行動障害の人がいるわけでも、入所施設で働いた経験があったわけでもなかった。
つまり、お勉強として、たまたま関わっているだけ、研究対象になっただけ。
別に、行動障害を持つ人じゃなくても、イルカでも、モルモットでも、良かったのです。
そんな人が語る支援方法を、そのまま信じる方も悪いと思います。
誰が言ったかではなく、自分がどう感じ、どのように考えるか。
それこそが大事なことですし、一人ひとり違うヒトと関わり、支援し、育む人達は、自分の頭で考える癖と他人の言っていることを一度疑う癖を持つ必要があると思います。


本を読んだだけで、研修に行っただけで、分かった気になっている。
そんな人に、良い支援ができるはずはありませんし、人を育てる仕事はできません。
別の言い方をすれば、そんなレベルで支援者面ができるのが、支援者という仕事なのです。
いろんなことを疑ってみる。
そして、自分の頭で考えてみる。
わからなければ、その本人に会いに行き、実際の支援の様子、考え方をこの目で、この身体で感じてみる。


リアルを拾う。
想像は負ける。
好きなやつがいたらガンガン会いに行く。
空想の世界で生きているやつは弱い。
心を動かされることから逃げてはならない。
そこに真実がある。


それをやらない支援者がいたとすれば、そういった支援者が多数だとしたら、支援者も、特別支援の先生も、介護者になるのだと思います。
発達障害の人も、行動障害を持つ人も、必要なのは介護をしてくれる人ではなく、正しいこと、適切なことをしっかり教えてくれる人なのです。

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