親子の育み合いに誘うために
「それは、何回くらいやればいいですか?」
「一日、何分ですか?」
「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」
具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。
以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。
でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。
一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。
「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。
それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。
発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。
あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。
子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。
創造すること、クリエイティブな営みです。
もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。
もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。
我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。
親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。
あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。
発達援助の核として、「心地良い」があります。
本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。
そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。
発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。
親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。
そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」といった枠組みが必要になる。
最近、私は「育み合い」という言葉を使うようになっています。
我が子の発達を後押ししているつもりでも、親御さんが育てられている場合がある。
そんな風に感じるからです。
発達援助という営みの中で、親子で交流し、一体化する。
その際、身体を動かし、身体を通して「心地良い」を感じる。
我が子の「心地良い」を感じようとすればするほど、自分の内側にある「心地良い」が育っていく感じです。
我が子の発達を後押しする。
そのためには、親御さん自身の身体、感覚、主体性が必要です。
でも、中にはそれらが育っていない親御さんもいます。
じゃあ、親御さんが育つまで、発達援助はできないか、しない方がいいか、と言ったら、そうでもないと思います。
先ほど、言った通り、「何もしない」では、発達を後押しすることはできないから。
それに発達援助自体が、親御さんの課題を育てる作用があるから。
以前は答えないようにしていたのですが、今は「何回やればいいですか?」と訊かれれば、「〇回ですね」と具体的に言うようにしています。
その数字は、私の見立てです。
そうして、言われた通りに行っていくうちに、徐々に親御さんの方も育っていき、感覚が掴めるようになっていく場合があるからです。
なんとなく、「これくらいかな」というのが掴めてくれば、自然と「何回やれば」が出なくなってきます。
「何回やれば」がなくなれば、具体的な回数を言うのを止めます。
親御さん自ら主体的に考え、試行錯誤が始まれば、距離を置くようにします。
そして、我が子に合った発達援助を創造するようになれば、サヨナラします。
発達援助自体のゴールは、親御さんが創造できるようになること。
発達援助にマニュアルも、正解不正解もないのですから、創造できるところまで親御さんを後押しするのが、私の仕事の役割だと考えています。
そのためには、親御さん自身も、課題をクリアし、育ってもらう必要があるのです。
その入り口が「〇回、やってくださいね」という具体的な言葉であり、育つ場が親子の交流と一体化の中だと思っています。
親子の育み合いに誘うために。
「一日、何分ですか?」
「登校前がいいですか?それとも、寝る前がいいですか?」
具体的な発達援助を提案すると、このような質問が返ってきます。
以前は、「本人の様子を見て、判断してくださいね」「本人が要求するなら続けてください」「本人が乗る気じゃなくなったら、無理してやることはないですよ」などとお伝えしていました。
でも、こういった表現ですと、戸惑ってしまったり、悩んでしまったりする方が少なくありません。
一番良くないのは、それが一歩を踏みさせないことにつながってしまうこと。
「何もしない」では、お子さんの発達の後押しはできません。
それに、いつまで経っても、「こんな感じかな」という雰囲気が掴めないままになってしまいます。
発達援助に、「良い発達援助と悪い発達援助がある」と思うのは勘違いです。
あるとしたら、やるか、やらないか、の二つだけ。
子どもの発達を後押しするとは、答えを見つけることでも、ある基準に近づけることでもありません。
創造すること、クリエイティブな営みです。
もし理想的な発達援助があるとするならば、それは、その子に合った発達援助を作ること。
もし良い発達援助があるとするならば、それは、その子が昨日よりも今日、今日よりも明日が良くなっていること。
我が子に合った発達援助を創造できなくなっているのは、子どもの変化、反応に気づけなくなっているからのように感じます。
親御さん自体が忙しくて気づけていない場合もあれば、子育てを外注してしまい、子どもを見る時間が少ない場合もあります。
あとは、親御さんの持つ課題として、主体性が育っていないこと、他人軸で生きていること、身体の感覚が乏しいことなどが挙げられます。
発達援助の核として、「心地良い」があります。
本人が「心地良い」と感じるとき、伸びやかな神経発達が起こるのです。
そういった本人の「心地良い」を感じるには、親御さん自身が「心地良い」が分からないといけません。
発達援助の最中とは、親子の交流、親子の一体化が生じます。
親子で交流し、一体化したとき、親御さんの身体に「心地良い」という受容器がなければ、我が子の「心地良い」は掴めないのです。
そうなると、「何回やればいいか」「どのくらいの頻度でやればいいか」といった枠組みが必要になる。
最近、私は「育み合い」という言葉を使うようになっています。
我が子の発達を後押ししているつもりでも、親御さんが育てられている場合がある。
そんな風に感じるからです。
発達援助という営みの中で、親子で交流し、一体化する。
その際、身体を動かし、身体を通して「心地良い」を感じる。
我が子の「心地良い」を感じようとすればするほど、自分の内側にある「心地良い」が育っていく感じです。
我が子の発達を後押しする。
そのためには、親御さん自身の身体、感覚、主体性が必要です。
でも、中にはそれらが育っていない親御さんもいます。
じゃあ、親御さんが育つまで、発達援助はできないか、しない方がいいか、と言ったら、そうでもないと思います。
先ほど、言った通り、「何もしない」では、発達を後押しすることはできないから。
それに発達援助自体が、親御さんの課題を育てる作用があるから。
以前は答えないようにしていたのですが、今は「何回やればいいですか?」と訊かれれば、「〇回ですね」と具体的に言うようにしています。
その数字は、私の見立てです。
そうして、言われた通りに行っていくうちに、徐々に親御さんの方も育っていき、感覚が掴めるようになっていく場合があるからです。
なんとなく、「これくらいかな」というのが掴めてくれば、自然と「何回やれば」が出なくなってきます。
「何回やれば」がなくなれば、具体的な回数を言うのを止めます。
親御さん自ら主体的に考え、試行錯誤が始まれば、距離を置くようにします。
そして、我が子に合った発達援助を創造するようになれば、サヨナラします。
発達援助自体のゴールは、親御さんが創造できるようになること。
発達援助にマニュアルも、正解不正解もないのですから、創造できるところまで親御さんを後押しするのが、私の仕事の役割だと考えています。
そのためには、親御さん自身も、課題をクリアし、育ってもらう必要があるのです。
その入り口が「〇回、やってくださいね」という具体的な言葉であり、育つ場が親子の交流と一体化の中だと思っています。
親子の育み合いに誘うために。
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