本人の前に立つ支援者、本人の後ろに立つ支援者
下手くそな支援者というのは、本人の前に立つ。
うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。
これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。
「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。
スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。
ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。
ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。
そういった人達は、身体が賢い人達です。
頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。
あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。
一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。
親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。
公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。
でも、子どもの前に出てはいけないのです。
私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。
しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。
「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。
発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。
私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。
何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。
だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。
生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。
発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。
子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。
向かいたい方向とは異なる方向へ引っ張ろうとすると、綱引きの綱がピンと張るように反発が起きるものです。
綱を引くのではなく、子どもが進みたい方向へ、ポンと背中を押す。
それこそが、発達を後押しすることだと考えています。
発達の仕方が一人ひとり異なるのですから、そもそもリードなどできないのです。
どの道を辿ったら、その子が治るかなんか、誰にも分からないからです。
そのとき、そのときで、子どもが進みたい方向、発達が伸びていきたい方向へと後押ししていった積み重ねが、治るであり、振り返ってその子の治った道になるのだ思います。
私達は、発達を支援してほしいのであって、子ども達の人生を誘導していってほしいのではありません。
どうも支援者というのは、子どもの前に立ちたがります。
そして視界を狭めようとする。
でも、本来、どの道を進むのか、選択するのかは、本人が決めること。
だから、本人が主体的に、より多くの選択肢の中から選べるようにするために、可能性を広げるのが支援者の仕事。
支援者にできる可能性を広げる方法とは、発達の後押しに他なりません。
そのために、本人の前ではなく、後ろに立ち、進みたい方向を見極める必要があるのです。
うまい支援者というのは、本人の後ろに立つ。
これは、実際の立ち位置のことではなく、支援の立ち位置のことです。
「私は支援をしています」と言いながら、子どもの前をスタスタ歩く支援者がいます。
スタスタ歩いて、どこに連れていくかといったら、自分たちの推し進める支援の中、一生涯支援の囲いの中。
ギョーカイというのは、「支援している」と言いながら、誘導しているのです。
ギョーカイの支援を受けて、心身共に不調をきたす人達がいます。
そういった人達は、身体が賢い人達です。
頭では支援を受け入れていますが、身体が受け入れていません。
あらぬ方向へと引っ張られているから、身体がそれに対して反発しているのです。
一見すると、従順に支援を受けているように見える人でも、心のベクトルは逆の方向へと進んでいる。
親御さんに対して、私は「リードではなく、後押しです」と言っています。
公的機関、標準療育を通る中で、たくさん悔しい思いをし、たくさん不満を持った親御さん程、支援ではなく育てる方法、治る道を知ると、勢いよく、その一歩を踏み出します。
でも、子どもの前に出てはいけないのです。
私は、一生涯の支援を受ける道ではなく、治る道があると確信しています。
しかし、同じ治る道を進んでいる子でも、その治し方、治り方は一人ひとり異なっています。
「この道を通れば、治る」という道があるのではなく、それぞれの歩き方で、それぞれの道を通り、最終的にその人の治るがあるのだと思います。
発達の仕方が一人ひとり違うのと同じように。
私達がしたい支援とは、子どもを特定の場所に誘導することではなく、子どもの発達を後押しすることではないでしょうか。
何らかの理由から、発達にヌケがあり、遅れが生じている。
だから、その部分を育て直そう、より良く発達してもらおうとするのが、望む支援のあり方。
生きづらさの根本に対する支援ではなく、子ども達の発達を支援するのではなく、第三者が決めた世界に誘導していくから、公的機関、標準療育から離れていくのです。
発達援助は、子どもの前に立ってはできないと思います。
子どもの後ろに立って、発達が伸ばしていきたい方向、その子が進みたい方向を見定める必要があるからです。
向かいたい方向とは異なる方向へ引っ張ろうとすると、綱引きの綱がピンと張るように反発が起きるものです。
綱を引くのではなく、子どもが進みたい方向へ、ポンと背中を押す。
それこそが、発達を後押しすることだと考えています。
発達の仕方が一人ひとり異なるのですから、そもそもリードなどできないのです。
どの道を辿ったら、その子が治るかなんか、誰にも分からないからです。
そのとき、そのときで、子どもが進みたい方向、発達が伸びていきたい方向へと後押ししていった積み重ねが、治るであり、振り返ってその子の治った道になるのだ思います。
私達は、発達を支援してほしいのであって、子ども達の人生を誘導していってほしいのではありません。
どうも支援者というのは、子どもの前に立ちたがります。
そして視界を狭めようとする。
でも、本来、どの道を進むのか、選択するのかは、本人が決めること。
だから、本人が主体的に、より多くの選択肢の中から選べるようにするために、可能性を広げるのが支援者の仕事。
支援者にできる可能性を広げる方法とは、発達の後押しに他なりません。
そのために、本人の前ではなく、後ろに立ち、進みたい方向を見極める必要があるのです。
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