プロセスにこだわる支援者、結果にこだわる支援者

治す支援者と治さない支援者、良い支援者と悪い支援者の見分け方は簡単です。
その人の言動をみれば、一発です。
良い支援者というのは、行動がシンプルで、分かりやすい言葉を使います。
難しい言葉、また意味が分かりづらい言動になればなるほど、支援を受ける側にとっては良くない支援者になる。


治すためには発達を語る必要がある。
そうなれば、シンプルな方向に向かうのは当然です。
また、シンプルで分かりやすい言動は、受け手を第一に考えていることの現れです。
自分主体の言葉を使っているか、相手主体の言葉を使っているか。
それこそが、その支援者の腕と、どの視点からモノ申しているかを教えてくれるのです。


支援者とは、支援する相手がいて、初めて存在価値が生まれるものです。
特別支援に関わる支援者で言えば、本人が今よりもラクになり、成長発達し、可能性を広げ、自立した人生へと向かう後押しができればよい。
だから、本人がどう変化したか、つまり、結果がすべて。
そのプロセスや方法は、二の次、三の次、いや、本人からしたらどうでも良いのです。


しかし、特別支援に関わる支援者というのは、どうも結果よりも、プロセス、方法の方が大事なようです。
本人がいくらもがき苦しんでいても、自分の選択する手法以外は用いないし、それらを否定すらする。
本人が「自分には合わないから、別の方法を」と言い始めると、自分の選択する手法が唯一無二のものであると言い放ち、良くならないのは障害のせいだと屁理屈をこねる。
そして、それでも別の方法を選ぼうとする人に対しては、「問題行動あり」というレッテルを張り、周囲の人間から洗脳し、逃げられないようにする。
これを一般社会では、人権侵害と言います。


本人により良い変化が訪れれば、それで良いのです。
どんな方法を選ぼうとも、まったく構わないのです。
サプリでも、体操でも、プラセボ効果でも、支援の世界と全然関係ない人の助けでも、何でもよい。
唯一悪いのが、何も変わらないことであり、そればかりか悪くなる一方なこと。


目の前にいる子が、少しでもラクになり、成長し、気持ちが穏やかになれば、それだけで嬉しくなるのが、親御さんであり、支援者というものです。
本人の心身の安定、成長を心から喜べない人間、それを第一の望みであると自分の腹の底から思えない人間には、支援者は無理なのです。
後付けの知識や技能を身に付けても、人を癒し、発達成長させることはできません。
主が自分だから。


結果ではなく、プロセスや方法にこだわる支援者というのは、目の前にいる人を支援しているのではありません。
支援しているのは、自分自身。
自分自身の過去と愛着の課題を癒すために支援しているのです。
ですから、自分のプロセスと自分の方法にこだわっている。


彼らは、自分が関わったことで、本人に良い変化が起きることを望んでいるのです。
つまり、自分の関わっていない変化は望んでいない。
むしろ、自分が関わらない中で良い方向へ進んでいくのなら、それは自分の内側にある淋しさ、孤独感が揺さぶられるため、否定、妨害したいという想いすら噴き出してしまうのです。


敢えて専門用語、横文字を使ったり、表現に癖を付け、相手に「う?」と思わせたり、そんな敢えて分かりにくくするような表現を使う支援者がいます。
また、すでにあるアイディアを寄せ集めてきて、「うち、オリジナルのアセスメントシートです。療育方法です」などというように、「中身は一緒、でも、パッケージングだけ違う」みたいな売り方をする支援者がいます。
こういった人達は、敢えて複雑にしていくことで、自分がいないとダメ、自分が関わって初めて意味が通る、というような状況を作っているのです。


本人と家族のことを一番に考えたら、分かりやすい言葉を使うし、大変にならないようにシンプルな方向性に持っていくはずですね。
寄せ集めのアセスメント、療育に、何十万も払わせようとするのではなく、「一度かかった獲物は放さないよ」みたいに何度も何度も通わせようとするのではなく、「息子さんは、この部分だけでいいですね」「このアセスメント形式、項目は、過去の〇〇と一緒ですよ」「家でできることなんで、全部教えましょうね」とすると思います。
だって、それが本人も、家族も、喜ぶことだから。


自分が支援に携わっているとき、その人が自発的にいろんなことを試すのも、自分以外の人の支援を頼るのも、問題ないばかりか、むしろ喜ばしいこと。
そうやって自発的に試行錯誤ができるのは、心身の安定や将来の自立の可能性を見ることになるから。
そして何よりも、自らの内側から溢れ出ている良くなるための行動なのですから、一緒に喜べばいいのです。
もし支援者が喜んでいないとしたら、面白くなさそうな態度をしていたら、それこそ、自分自身を主にしたヤブ支援者です。


世の中には、福祉に携わる人間=善人、マザーテレサのような博愛の精神の持ち主みたいな勘違いをされている人がまだまだ多い気がします。
もし本当にそうだとしたら、本人がより良くなることだけを願い、一緒に喜んでくれるはずです。
分かりやすい言葉で話してくれて、シンプルな方向へと導いてくれるはずです。
敢えて複雑で分かりにくい言葉を使い、本人と家族の負担よりも、自分との関わりを深めようとする支援者が、目の前の人の心身と未来を明るくしてくれるはずがないのです。
その瞳に映っているのは、淋しくて、孤独な自分自身の姿。


支援者というのは、「連携」「連携」言う割には、他の支援者、派閥の違う支援者のことを、本人、家族に紹介しませんね。
自分よりも、目の前の人のためになる、と思う支援者がいるのなら、その人を紹介するのが自然だと思います。
でも、決して紹介しない。
紹介しているのは、自分と利益を共有する支援者のみ。
「紹介されて頼った支援者が、紹介してくれた支援者と同じことを言う」のって、よくあることでしょ。


結局、本人と家族の幸せは第一ではなく、小さな特別支援というムラ社会の中で、陣地と利益の取り合いっこをしているだけ。
そろそろ気が付いた方が良いですね、「治るVS治らない」「エビデンスありVSなし」は対外工作であり、障害者支援という既得権益を守ろうとしているだけのことを。


一番大切なことは、本人がより良く変化し、幸せになること。
そこに辿りつく道は、一人ひとり違っても良いのです。
その道を通せんぼしているのが誰か、その顔をしっかり見て、覚えていた方が良いですね。

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