当事者をお客様扱い
深夜の緊急地震速報に驚いて目を覚まし、スマホの画面を見ると、「北海道 道南」という文字が目に飛び込んできました。
ちょうど一年前くらいはミサイルが何発か飛んできましたが、北海道が大きな地震の震源地になるのは1、2度あったかな、という感じ。
ですから、「こりゃ、マズイな」と思った瞬間、家族で身を寄せ合っていました。
地震の揺れが止まって、テレビをつけようとしても、つきません。
そこで停電に気が付きました。
地震で停電になるのは初めてのことでしたので、北海道で大変なことが起きたと直感しました。
スマホやラジオで情報を集めると、胆振地方で震度7の大きな地震があったことがわかりました。
カセットコンロで調理した朝食を摂ったあと、小学生の息子を連れて街を歩きました。
止まったままの信号、真っ暗なお店、次々に出動する救急車、警察の方達が交通整理している姿…。
食材はストックがあったので、カセットコンロのガスボンベを買うためにお店にも並びました。
薄暗い店内で、何とも言えない重苦しい雰囲気の中、並び続け、1つだけガスボンベを購入しました。
余震が続いている中でしたので、息子を家において、私だけ買い出しに行くというのが適切だったかもしれません。
でも、息子には肌身で、今回のことを感じてほしかった。
当事者であることを求めたのです。
家にいて、ただの停電、お客様のような感じにはなってはならないと思ったのです。
函館の停電は、当日の夜くらいから段階的に復旧していきました。
私の家も、比較的早い段階で電気が通りましたので、充電やお手伝いすることがあれば、と思い、現在、発達援助で関わっているご家庭に連絡をしました。
すると、すぐに皆さんから返事が来て、無事であることがわかりました。
そして、子ども達が成長した様子も伝わってきました。
以前は、変化があるたびに不安定になっていた子が、急遽、学校が休みになっても、電気がつかないで、いつもの生活ができなくても、いい意味で淡々と過ごしていました。
家族を手伝うために買い出しをする子もいました。
親戚や知り合いの家に物を届けたりしていた子もいました。
真っ暗な中、反対にその非日常的な生活を楽しみ、遊びを考えていた子もいました。
震源地周辺の方達やこの夏の豪雨災害に遭われた方達と比べれば、直接的な被害があったわけではないので大したことはないかもしれませんが、子ども達の様子からは不測の事態の中でも、たくましく生きる姿を感じました。
今年の夏は、ご縁を頂き、広島に伺いました。
広島に伺う前には、休校になった学生たちや子ども達が、ボランティアとして復興のために汗を流していることを知り、伺ったときには、発達障害を持つ若者が仕事を頑張り、また仕事が終わったあとや休日などに、地域のために頑張っていることを知りました。
東日本大震災のときもそうでしたが、大きな災害が起きると、発達障害の人達は、こういったことに困っています、こういった配慮が必要です、と訴える支援者たちがいます。
しかし、私には違和感でしかありません。
訴えている内容が、平時のときと同じなのです。
「視覚的に伝えよう」
「見通しを持たせよう」
「一人になるスペースを作ろう」
「落ち着ける活動ができるようにしよう」
誰一人、見通しが持てない状況の中で、発達障害の人には「見通しを持たせよう」と訴える。
平時と同じ環境や活動は用意できないのに、「刺激の少ないスペースを用意しよう」と訴える。
中には、変化に弱いから、「なるべく日課は変えないようにしましょう」という人さえいる。
当然、こういった要望は叶えられるわけはないのに、「配慮が足りない」と周りのせいにしてしまう。
でも平時と同じことを言っているのですから、緊急時には役に立たない支援をしているということ。
責めるべきは、不測の事態に対応できるだけの育ちがない支援をしている自分たち、支援者ではないでしょうか。
人によっては、自然災害が起きたとき、配慮が必要な人もいるでしょう。
でも、みんながみんな、配慮を求めるだけの存在というわけでもないですし、いつまで経っても、配慮を求めるだけの存在でい続けるのも違うと思います。
自然災害が起きるたびに、「配慮を」「理解を」と訴える支援者の姿を見るたびに、発達障害の人達の持つ力、可能性を信じていないのだな、彼らの力を見くびっているのだな、と感じます。
どうして、発達障害の人達を、いつまでもお客様にしておこうとするのでしょうか。
同じ場所で被害にあったなら、彼らも同じ被災者。
そして、広島で地域の復興のために汗を流す若者たちと同じように、彼らも地域を担い、その地域を作っていく当事者のはずです。
社会、地域の一員として力を発揮できるように支援するのが、私達の大事な役割の一つだと思います。
いつまでも、「特別な存在」「配慮と理解を求めるだけの存在」に、彼らを留めておくのは間違っている。
オバケが怖い息子は、いつもあちこち電気をつけまくっていました。
でも、停電が終わったあと、自ら「ここは電気つけなくていいや」と、必要以上に電気をつけないようになりました。
息子は、今回、当事者になり、いろいろ感じたのだと思います。
日頃、発達援助で関わっている子ども達も、不安定にならないだけではなく、当事者として家族の手伝いをしていました。
たった数日の出来事ではありましたが、彼らは傍観者ではなく、当事者として主体的に過ごしたのだと思います。
息子や関わっている子ども達、若者たちの長い人生を考えると、彼らは何度も自然災害や不測の事態に遭遇するでしょうし、当事者になることもあるでしょう。
そんなとき、自分の命を守れることはもちろんのこと、守った命を誰かのために、地域、社会のために使える人になってほしいと思います。
そのための発達援助なのだと、今回、改めて感じました。
発達のヌケが埋まり、土台がしっかりすると、不測の事態が起きたときに、身体が自在に動かせるようになると思います。
まさに地を足に付けているからこそ、変化に合わせて動くことができるし、主体的に力を発揮できる。
土台がフワフワしていると、いつまで経っても、当事者意識が芽生えず、傍観者になってしまいます。
広島は大変な状況でしたが、汗を流す若者たちの姿に希望と未来を感じました。
そういった地域、社会の希望と未来になる若者たちを育てられるよう、私は発達援助を通して、子ども達と家族の後押しをしていきたいと思います。
今回、震災直後から、沢山の方達に心配して頂きました。
メールやSNS等で心配してくださった方たちの顔を想像すると、過去に災害の当事者になったことがある方であり、そういった不測の事態にすぐに身体が動く方達だったと感じました。
我が身のことのように感じたあと、そのまま怖がり続けるのではなく、行動に移せること。
そういった方達から頂いたメッセージには、力強さと優しさが溢れていました。
心配してくださった皆様、本当にありがとうございました。
ちょうど一年前くらいはミサイルが何発か飛んできましたが、北海道が大きな地震の震源地になるのは1、2度あったかな、という感じ。
ですから、「こりゃ、マズイな」と思った瞬間、家族で身を寄せ合っていました。
地震の揺れが止まって、テレビをつけようとしても、つきません。
そこで停電に気が付きました。
地震で停電になるのは初めてのことでしたので、北海道で大変なことが起きたと直感しました。
スマホやラジオで情報を集めると、胆振地方で震度7の大きな地震があったことがわかりました。
カセットコンロで調理した朝食を摂ったあと、小学生の息子を連れて街を歩きました。
止まったままの信号、真っ暗なお店、次々に出動する救急車、警察の方達が交通整理している姿…。
食材はストックがあったので、カセットコンロのガスボンベを買うためにお店にも並びました。
薄暗い店内で、何とも言えない重苦しい雰囲気の中、並び続け、1つだけガスボンベを購入しました。
余震が続いている中でしたので、息子を家において、私だけ買い出しに行くというのが適切だったかもしれません。
でも、息子には肌身で、今回のことを感じてほしかった。
当事者であることを求めたのです。
家にいて、ただの停電、お客様のような感じにはなってはならないと思ったのです。
函館の停電は、当日の夜くらいから段階的に復旧していきました。
私の家も、比較的早い段階で電気が通りましたので、充電やお手伝いすることがあれば、と思い、現在、発達援助で関わっているご家庭に連絡をしました。
すると、すぐに皆さんから返事が来て、無事であることがわかりました。
そして、子ども達が成長した様子も伝わってきました。
以前は、変化があるたびに不安定になっていた子が、急遽、学校が休みになっても、電気がつかないで、いつもの生活ができなくても、いい意味で淡々と過ごしていました。
家族を手伝うために買い出しをする子もいました。
親戚や知り合いの家に物を届けたりしていた子もいました。
真っ暗な中、反対にその非日常的な生活を楽しみ、遊びを考えていた子もいました。
震源地周辺の方達やこの夏の豪雨災害に遭われた方達と比べれば、直接的な被害があったわけではないので大したことはないかもしれませんが、子ども達の様子からは不測の事態の中でも、たくましく生きる姿を感じました。
今年の夏は、ご縁を頂き、広島に伺いました。
広島に伺う前には、休校になった学生たちや子ども達が、ボランティアとして復興のために汗を流していることを知り、伺ったときには、発達障害を持つ若者が仕事を頑張り、また仕事が終わったあとや休日などに、地域のために頑張っていることを知りました。
東日本大震災のときもそうでしたが、大きな災害が起きると、発達障害の人達は、こういったことに困っています、こういった配慮が必要です、と訴える支援者たちがいます。
しかし、私には違和感でしかありません。
訴えている内容が、平時のときと同じなのです。
「視覚的に伝えよう」
「見通しを持たせよう」
「一人になるスペースを作ろう」
「落ち着ける活動ができるようにしよう」
誰一人、見通しが持てない状況の中で、発達障害の人には「見通しを持たせよう」と訴える。
平時と同じ環境や活動は用意できないのに、「刺激の少ないスペースを用意しよう」と訴える。
中には、変化に弱いから、「なるべく日課は変えないようにしましょう」という人さえいる。
当然、こういった要望は叶えられるわけはないのに、「配慮が足りない」と周りのせいにしてしまう。
でも平時と同じことを言っているのですから、緊急時には役に立たない支援をしているということ。
責めるべきは、不測の事態に対応できるだけの育ちがない支援をしている自分たち、支援者ではないでしょうか。
人によっては、自然災害が起きたとき、配慮が必要な人もいるでしょう。
でも、みんながみんな、配慮を求めるだけの存在というわけでもないですし、いつまで経っても、配慮を求めるだけの存在でい続けるのも違うと思います。
自然災害が起きるたびに、「配慮を」「理解を」と訴える支援者の姿を見るたびに、発達障害の人達の持つ力、可能性を信じていないのだな、彼らの力を見くびっているのだな、と感じます。
どうして、発達障害の人達を、いつまでもお客様にしておこうとするのでしょうか。
同じ場所で被害にあったなら、彼らも同じ被災者。
そして、広島で地域の復興のために汗を流す若者たちと同じように、彼らも地域を担い、その地域を作っていく当事者のはずです。
社会、地域の一員として力を発揮できるように支援するのが、私達の大事な役割の一つだと思います。
いつまでも、「特別な存在」「配慮と理解を求めるだけの存在」に、彼らを留めておくのは間違っている。
オバケが怖い息子は、いつもあちこち電気をつけまくっていました。
でも、停電が終わったあと、自ら「ここは電気つけなくていいや」と、必要以上に電気をつけないようになりました。
息子は、今回、当事者になり、いろいろ感じたのだと思います。
日頃、発達援助で関わっている子ども達も、不安定にならないだけではなく、当事者として家族の手伝いをしていました。
たった数日の出来事ではありましたが、彼らは傍観者ではなく、当事者として主体的に過ごしたのだと思います。
息子や関わっている子ども達、若者たちの長い人生を考えると、彼らは何度も自然災害や不測の事態に遭遇するでしょうし、当事者になることもあるでしょう。
そんなとき、自分の命を守れることはもちろんのこと、守った命を誰かのために、地域、社会のために使える人になってほしいと思います。
そのための発達援助なのだと、今回、改めて感じました。
発達のヌケが埋まり、土台がしっかりすると、不測の事態が起きたときに、身体が自在に動かせるようになると思います。
まさに地を足に付けているからこそ、変化に合わせて動くことができるし、主体的に力を発揮できる。
土台がフワフワしていると、いつまで経っても、当事者意識が芽生えず、傍観者になってしまいます。
広島は大変な状況でしたが、汗を流す若者たちの姿に希望と未来を感じました。
そういった地域、社会の希望と未来になる若者たちを育てられるよう、私は発達援助を通して、子ども達と家族の後押しをしていきたいと思います。
今回、震災直後から、沢山の方達に心配して頂きました。
メールやSNS等で心配してくださった方たちの顔を想像すると、過去に災害の当事者になったことがある方であり、そういった不測の事態にすぐに身体が動く方達だったと感じました。
我が身のことのように感じたあと、そのまま怖がり続けるのではなく、行動に移せること。
そういった方達から頂いたメッセージには、力強さと優しさが溢れていました。
心配してくださった皆様、本当にありがとうございました。
まだ予断を許さない状況の中、周りの方達への配慮、
返信削除そしていつもの状況にいる私たちへの力強いメッセージ、
ありがとうございます。
被災した場合の息子を想定してみました。
イレギュラーな時こそ、人の力になれることを自然に発揮できるのではないかと思います。
助けられ、守られるだけでなく、人の役にたちたいという意識が芽生えています。
シフォンさんへ
削除コメントいただき、ありがとうございます!
ヒトは、助け合うことで生き延び、進化してきた動物だと思います。
ですから、予測できない事態と向き合ったとき、ヒトらしい力強さと本能の輝きが表れるはずです。
息子さんの中に、人の力になっている姿と、そのエネルギーを感じられることは素敵なことだと思います。
私達、先を生きる者は、ずっとそばにいて、彼らを守り続けることができません。
だからこそ、自分の命を自分で守る姿、さらにその命を誰かのために燃やす姿を感じたとき、私達は心から喜び、安心するのだと思います。
人の役に立ちたいという意識が芽生えるのは、人として成長し、成熟してきている証拠ですね。
息子さんのような若者たちが、自然災害から立ち上がる力、より良い未来、社会を築いていく力になるはずです。
私は未来を悲観することはありません。
きっと今の若者たち、子ども達が頑張ってくれると信じています。
そのためにも、私達、大人が一生懸命に生きないといけませんね。
私も、今ある命と時間をちゃんと燃やし切りたいと思っています!