変化に強いはずだよ、構造化された支援は

イレギュラーな状況にこそ、構造化された支援は力を発揮するのだと思います。
スケジュールやワークシステム等で、見通しを持たせると同時に、変更を伝えていく。
常日頃から変わらない部分と変わる部分を知り、経験することで、状況や環境の変化に対応できるようになるのです。


10年前、私が熱心にトレーニングを受けていたとき、まず最初に「日課、活動のルーティン化は避けなければならない」と教わりました。
“変化が苦手で、同じパターンを好むタイプの人達だからこそ、変化に対応できることを彼らは学ばなければならない。
もし変化に対応できず、同じパターンでしか行動できないとしたら、彼らの生活、人生は乏しいものになってしまうのだから。”


日本では、構造化された支援は「情報を整理し、彼らにわかりやすく伝える」「混乱を避けるためのもの」という側面ばかり強調されていますが、どちらかというと、トレーニングでは「変化に対応できる」という側面の方が強調されていたと感じます。
まあ、それは考えてみればわかることです。
もし、安定だけを目指すのなら、日課も、手順も、すべてパターン化してしまえばよいのですから。
まったく変化のない環境と日課を用意し、いつも同じようなことをやり続けさえすれば、混乱することはないでしょう。
でも、それではいけないから、構造化された支援を通して、変化と変更に対応できるように学んでいくのです。


今回もそうですが、自然災害等でイレギュラーな状況が起きたとき、常日頃、構造化された支援を熱心に行っている人達から悲痛の叫びと「配慮を」「理解を」の訴えが聞こえてくるのが不思議でなりません。
こういったイレギュラーな状況でも、落ち着いて生活できるために、日々、構造化された支援を学び、実施していたのではないでしょうか。
変化を伝え、変化に対応できるように育てるための構造化された支援なのに、「変化で困っています」「落ち着ける環境を用意してください」というのは、おかしなこと。
待ってましたとは言わないけれども、こういった状況でも、「私達は対応できるし、落ち着いて生活できています!」と日頃の成果を見せ、本領発揮するときだと思いますが…。


構造化された支援の本質を見抜き、大事なことは、ただ「視覚的に示す」「衝立を立てて刺激を統制する」「情報を整理する」ではなく、「変化に対応できる人に育てること」と理解している人もいるでしょう。
でも、大部分の人は本質ではなく、表面的なマネだけで終わっているのだと感じます。
だって、日本の構造化、ティーチ系支援者、保護者たちは、環境調整ばかりを訴える。
だから、自然災害が起きたときですら、避難所の環境ガー、周囲の理解ガーと、一般的な感覚とズレた主張を展開するのです。


私も、20代のときは熱心にティーチと構造化された支援を学んでいましたので、とても多く感じるのです。
ティーチや構造化に熱心な人というのは、ラクをしたがる人だ、と。
別の言い方をすれば、頑張れない人、コツコツと積み上げられない人、批判されると立ち直れない人が、ラクな方法へと飛びつく。


「構造化された支援は、準備が大変だし、みんな熱心に多くの支援グッズを作っているじゃないか」と言われるかもしれません。
確かに見た目では、スケジュールを作ったり、部屋の環境を整えたり、準備、手数が多いように見えます。
でも、私には「支援グッズを用意し“さえ”すればよい」「部屋の環境を整え“さえ”すればよい」という風に見えるのです。


支援グッズをたくさん作り、部屋を改良すれば、それで万事うまくいく、というのは勘違いですし、浅はかな考えだと私は思います。
その人のことをしっかり見て、人を育てようとしたら、そんなインスタントな発想にはなりません。
中には、自分がちゃんとやっていないと見られないために、支援グッズをせっせと作っている人もいるように感じます。
支援グッズが、支援する側のエクスキューズになっていることも。


いつも構造化された支援を推奨している支援者たちが、緊急時に不安定になっている人達を目の前にしても、「配慮ガー」「理解ガー」とやっている。
あなた達の推し進める支援とは、変化に対応でき、本人たちの生活と人生の幅を広げる支援ではなかったのか。
結局、平時も、緊急時も、社会や環境側に変わることを求めるのなら、その支援は無力ということではないのか。


社会と環境が問題の本質だとしたら、支援センターも、早期療育も、全部やめてしまえばよいのです。
そして、その分の人とお金で、まったく変化のない頑丈なシェルターを各地域に作ればよいと思います。
でも、そういった発想は出てこない。
ということは、当事者の人達というのは、支援者にとっての金を産むメンドリであり、主義主張のための道具なのです。
本当に目の前の人に幸せになってほしいと心から願うのなら、その人自身がより良い変化をし、自立した人生を歩めるような後押しに心血を注ぐはずですから。


変化のない環境を用意するよりも、変化に対応できる人に育てる方が現実的ですし、近道です。
確かに、変化に苦手な人達といえるでしょう。
でも、だからといって、変化に対応できる可能性がない人、ではありません。
変化が苦手なら、変わらない部分と変わる部分を作り、幅を広げていけば良いのです。
刺激にバリエーションをつけ、幅を広げていくのは、人を育てていく基本中の基本です。


日頃の刺激を統制しつつ、緊急時になって慌てて「ここに変化があります」と、いくら視覚的に伝えても、対応できるわけがありません。
だって、そもそも、その人自身、幅が狭いから。
でも、それは本人の特性ではなく、周囲の人間が刺激を統制し続けた結果だといえるのです。


構造化された支援を熱心にやっていたはずなのに、「うちは、構造化された支援やってます」と誇らしげに言っていたはずなのに、肝心なときに、その力が発揮できていない。
それは、日頃、手抜きをしているから。
人を育てるというのは、時間がかかるし、結果がすぐに出るものではありません。
でも、少しずつ手を変え、品を変え、受け入れられる刺激を増やしていくという試行錯誤を通して、その人自身の幅を広げていく。


これは感覚を育てるのも一緒。
「うちの子、発達障害で~、食べれるものが限られているんです。でも、私が甘やかしているからではないんですよ。特性です、特性。だから、配慮をー。残しますカードをー」
じゃなくて、食べられるものの幅を広げていこうと、試行錯誤するのが育てるということでしょ。
そして、食べられるものが増えるということは、それ自体、より良く生きることに繋がる、不測の事態でも生きぬける力となる。


「育てる手間を省くために、構造化された支援を頑張る」じゃあ、悲し過ぎます、本人が。
私は、本人の中に幅を作ってあげたいと思います。
育てるというのは、地味で、コツコツと積み上げていく時間のかかる営みではありますが、本人たちがどんな状況でも生き抜き、豊かな人生を歩んでいけるようにしていきたいのです。

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