治そうとすればするほど、発達援助はシンプルになる

私が直接、相談や支援に関わらせていただくときは、やることを増やしていくよりは削っていく方が圧倒的に多いと言えます。
それまで、一生懸命いろいろな試みをやられていた親御さん程、「これだけでいいんですか」と驚かれます。


私がやってもらうことを削っていくのは、親御さんの力を信じていないからではなく、むしろ、子どもさんの発達のヌケを育て直せるのは親御さんしかいないと心から信じているからです。
親御さんの育てる力を信じているからこそ、私は発達の根っこを掴もうとするのです。


行ってもらう発達援助がシンプルになっていくのは、発達課題の根っこを手繰り寄せていくからです。
発達課題は一部分として存在するわけでも、いろいろなところに点在しているわけでもありません。
発達とは全体の調和と連動です。
ある発達課題があるとして、その発達課題は様々な部分と連動し合っています。
同時に、その発達課題の手前には別の発達があり、その別の発達の前にも発達がある。
発達は幾重にも重なり合っていながらも、全体としてつながっているのです。


発達にヌケや遅れがある子は、姿勢が保てなかったり、勉強ができなかったり、会話が難しかったり、人間関係が築けなかったり、様々な課題が見て取れます。
しかし、姿勢が保てないから体操、勉強ができないから家庭教師、会話が難しいから言葉の教室、人間関係が築けないから児童デイというように、表面に表れている課題を一つずつクリアしていこうとすると、やるべきことがどんどん増えていきます。
まるでモグラたたきをしているかのようです。
課題が出ては叩き、課題が出ては叩く。
そもそも課題が全くない人生などあり得ないですし、その子の持つ課題を親でも、他人でも、対応し続けることは不可能だといえます。


私は、その人の課題と向き合うとき、見えている課題とは枝葉だと考えています。
ですから、その枝葉が出ている幹を辿り、そして土の中の奥深くまで掘り続け、その課題の始まりである根っこを探ります。
掴んだ根っこを本人と親御さんに手渡し、そこを育ててもらうまでが私の仕事だといえます。


根っこの部分といえる発達のヌケから育てていくと、土台から元気になっていきます。
土台がしっかりし、幹がたくましくなり、枝葉が輝き始める。
発達障害の子どもの成長は「ドカン」というように表現されますが、それは根っこが元気になったため、土台から一気に成長したためだといえます。
しっかり発達課題の根っこを掴み、そこを育てた子は、急激な発達と成長を見せるものです。


「LDの子に合わせた学習支援」
「ASDに特化したソーシャルスキルトレーニング」
「発達障害の子向けの運動教室」
枝葉に合わせた支援や療育が溢れています。
でも、こういったところに通ったとしても、根本から生きづらさ、課題が治っていくことはありません。
課題の根っこに手が届いていないからです。
またサービスを提供する側も、枝葉を整えるというお客様が見て実感できる部分を整えているにすぎないからです。
別の言い方をすれば、私を含め、本人でも、家族でもない第三者の人間に、根っこを育てることはできないからこそ、枝葉を整えるしか提供できないのです。


土の上から出ている幹や枝葉は育てられますが、根っこは本人と家族にしか育てられません。
土の上は成長であり、根っこは発達だからです。
発達は、じっくり時間をかけて、育んでいかなければなりません。
また、それには発達の流れ、その子の物語を感じ、それに沿って行う必要があります。
第三者にはそれができないのです。


発達障害の人達は、受精から出生後、主に言語を獲得する以前の段階に発達のヌケや遅れが見られます。
この時期の自然な発達を見ると、主体である本人は、育む運動を存分に、時間という概念の無い世界で、とことんやり切ります。
言語を獲得した後の成長と比べると、明らかに違うのです。
勉強やスポーツなど、学習や技術の習得は、時間という概念の中、効率的に、かつ表面的に繰り広げられます。
しかし、ヒトとして生きていく上での大事な土台作りは、知識や技術、情報のやりとりではないのです。


「勉強ができるように育てる」と、「勉強ができる身体に育てる」は、全然違います。
その違いは、成長と発達、学習と育み、部分と全体、マニュアルとオートマの違いと似ています。
私達は、勉強ができる身体を育てたいわけですし、彼らの課題も、勉強ができないことではなく、勉強ができる身体に育っていないことが根本になります。
発達にヌケや遅れのある人は、勉強する年代になったから困っているのではなく、勉強、いや、言語を獲得する以前から困っていて、その生きづらさが勉強をきっかけに表面化しているに過ぎないのです。


以前関わっていた親御さんは、我が子のことを心から愛し、将来、自立できるようになってもらいたいと願っていたからこそ、いろんなところに通い、いろんなことを実践していました。
しかし、その子を目の前にして、どれも枝葉に対するアプローチにしかなっていないことがわかりました。
枝葉に対するアプローチがまったく無意味か、発達成長の刺激になっていないかと言われれば、そうではないと思いますが、発達課題の根っこが育たない限り、ドカンというような成長は見られませんし、治っていきません。
ですから私は、改めて親御さんと一緒にその子の発達課題の根っこを探っていき、突き当たった部分のみを集中して育ててもらうように提案しました。


私の提案に納得していただいた親御さんは、とことんその部分を育てるようになりました。
幾日も、幾日も、我が子がその発達課題と刺激を味わい尽くせるように付き合い続けました。
その結果、ドカンがやってきた。
発達の根っこから育ったその子は、ガラッと変わり、自らの足で発達、成長を始めました。
自らの足で歩み始めた子は、それまでの枝葉の刺激をも養分とし、たくましく育っていったのです。


私は、枝葉の療育、支援が好きではありません。
その療育や支援をしている人間が、「発達障害に特化したことをやっている」という雰囲気を出すのも嫌いです。
私は特化した療育、支援など、必要ないとすら思っています。
発達障害を持つ子に必要なのは、発達のヌケを育て直すことであり、根本から育っていくこと。
決して、特化した支援、サービスを受けるのがゴールではないと思います。
それに、その人自身の内側には、特化した療育、支援を飛び越えられるだけの成長する力、可能性を持っていると思います。
なんだか、「特化した療育、支援」には、提供する側が決めた枠が見えるのです。


発達課題の根っこから育てようとすれば、どんどん発達援助はシンプルになると思います。
私はできるだけシンプルになるようなお手伝いをし、その部分を家庭の中でじっくり育てて欲しいと願っています。
シンプルになればなるほど、その子は十分に発達と刺激を味わい返すことができます。
私は、発達の土台がしっかり育つと、自らの力で発達、成長していく子ども達をたくさん見てきました。
決して、彼らと二人三脚するのが素晴らしい支援だとは思いません。
それは真の意味で自立したことにならないからです。


私の仕事、役割は、土の中を掘っていき、課題の根っことなる部分を探り当てること。
課題の根っこを掴んだら、それを本人と家族に手渡し、じっくり育むことをお願いします。
今、定期的に利用してくださっている皆さんは、私の次の訪問まで、とことん根っこを育ててもらいます。
そして私は育ち具合を確認し、感想と今後の見通しを伝えます。
枝葉の仕事は、生きている限り、永遠に仕事を作り続けることができます。
しかし、根っこから育てれば、必ず終わりが来るもの。
ドカンが来れば、私の援助は終了です。

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