生命を維持するための育ち、生き抜くための育ち、人間として生きるための育ち
治る否定派は、勘違いしていることがあります。
それは、私達が「治す」とは言っていないことです。
発達障害を治すのは、支援者ではなく、本人であり、家族です。
また発達障害は治すものではなく、治るものです。
ここを読み違えると、「私達が支援すれば治るから、こっちへ来なさい」というような安っぽい詐欺師に見えてしまいます。
実際は、本人の困難を解決するわけでもなく、育てるわけでもなく、みんなの税金を使って「社会ガー」と言っているだけの専門家の方がよっぽど詐欺師に見えるのにね。
「発達障害の人も発達するのは当たり前だろ。でも、治らないから障害なんだ」と言う人もいます。
意味不明ですね。
発達障害のことを、遺伝性の障害ですとか、機能障害、身体障害と同じように捉えているのでしょう。
神経発達の障害である発達障害の人が、発達を続けたら、障害の部分が軽度化されていくし、その先には日常生活に影響を及ぼさない状態、本人が自覚することのない状態になっていくものです。
別に絵に描いたような普通の人(というか普通の人がどんな人かわかりませんが)になることが治ったということではありません。
そんなこと言いだしたら定型発達の人はいなくなり、世の中みんな発達障害を持つ人になります。
「治らないけど、発達する」という奇妙な説を唱える支援者や親御さんを見ますと、「子どもさん、ぜんぜん発達してませんけど」という場合が少なくありません。
発達するんだったら、治る一歩前まで、ちゃんと発達できるようにしたらよいのに、と思いますね。
こういった人の多くは、「発達するもん」と言いながら、子どもの発達を後押しするようなことをやっていない。
というか、育てる意味の勘違い、育てる方向性の違いがあります。
ヒトを育てるというのは、根気がいる営みです。
だけれども、どうもインスタントに結果を求めてしまう。
繰り返し、繰り返し、しかも見えない土台の部分から丁寧に育てていくことが「ヒトを育てる」なのに、見える部分で、すぐに結果が出るようなところばかりチョチョッといじくって、「はい、私は育てています」と言っちゃう感じ。
そういった人が療育に飛びついてしまいがちです。
そもそも『療育』とは治“療”と教“育”が合わさった言葉。
まあ、見事にギョーカイは、「治す」を捨ててしまっていますがね。
治さない療育は、デコボコの土地の上に家を建てようとしているようなもの。
当然、そんな土地の上に家が建てられるわけでもなく、だから昔の映画のセットのようなベニヤ板に絵を描いた家を吊るしてしまう。
見せかけの育ちですね。
いくら絵カードが使えるようになっても、いくらSSTで知識を得たとしても、いくらご褒美で特定の行動ができるようになっても、その子が育ったわけでも、発達したわけでもありません。
ただ適応しただけ、ただ振る舞い方を覚えただけ。
ヒトを育てるとは、三段構造になっていると私は考えています。
まず『生命を維持するため』の育てる。
子どもに必要な食事を用意し、しっかり休息できるような環境を整える。
病気や危険から守り、心身共に安心感を得られるような育てるです。
いわゆる快食快眠快便を整えることが土台の育ち。
その上には、動物として生きるための育てるがあります。
『生き抜くため』の育ちです。
神経を育て、内臓を育て、感覚を育て、動きを育てる。
生き抜くためには、生き抜ける身体が必要です。
自由自在に動かせる自分の身体となるように、遊びや運動、日々の生活を通して、子どもを育てていく。
子どもが主体的に伸びやかに成長できる環境を整えることと、子どもの発達に課題があれば、そこを丁寧に育て直すのが、ここで求められる育ちです。
そして一番上に、『人間として生きるため』の育てるがあります。
勉強をして知識を得る、技術を身につける、より良い人間関係の築き方、集団でのルールや協働の仕方を学ぶなど、多数の育ちがあり、育てるがあります。
人間として生きるための育ちとは、社会の中で生きるための育ちともいえます。
ヒトを育てるとは、このように『生命を維持するため』の育ちがあり、『生き抜くため』の育ちがあり、『人間として生きるため』の育ちがあるはずですし、それぞれの育ちが満たされることが必要だと思います。
どこかが満たされていなければ、次の段階の育ちがうまくいくはずもありません。
「社会の理解ガー」と言う前に、ちゃんと栄養のある食事を用意しなよ、しっかり眠れるように整えろよ、と思うことがあります。
「支援ガー」と言う前に、身体を育てなよ、子どもの発達の課題に注目しなよ、しっかり遊びきれる環境を用意しなよ、と思うことがあります。
生命を維持するための育ちが脆弱で、生き抜くための育ちに無頓着。
それなのに、人間として生きるための育ちを詰め込もうとする。
そんな表面だけを育てようとしているうちは、子どもは真の意味で発達しませんし、育っていきません。
年端もいかない子どもが診断を受ける。
で、快食快眠快便よりも、神経を育て、発達させることよりも、「重要なのは療育です」と言って、絵カードの使い方や模範的な振る舞い方の勉強、餌付けによる芸事ばかりやる。
神経発達が盛んな時期の子どもが育ちよりも、大人による対処ばかりされている現実。
これではいつまで経っても課題は解決しないし、本人の苦しみは治っていかない。
だから、親御さんは悩む。
そして専門家から返ってくるのは「発達はしますが、治りません」という一言。
治らないのは、そもそも療育によって育てていないからであって、ヒトの発達を無視しているからだといえます。
治すことを目指している人というのは、ヒトを育てる人達だと感じます。
見せかけの育ちではなく、根本から、土台からじっくり育てようとする人達。
だから、目の前にいる子をより良く発達させるアイディアや、それを持つ人を、特別支援という特殊な世界の中からだけではなく、広い世界から見つけようとします。
そういった姿勢や親子の営みの中、いつの間にか治っていく。
発達障害とは神経発達の障害なのですから、刺激を与え、育てようとしている限り、その子の発達は止まらないものなのです。
特定の集団にとって不都合な事実だったとしても。
それは、私達が「治す」とは言っていないことです。
発達障害を治すのは、支援者ではなく、本人であり、家族です。
また発達障害は治すものではなく、治るものです。
ここを読み違えると、「私達が支援すれば治るから、こっちへ来なさい」というような安っぽい詐欺師に見えてしまいます。
実際は、本人の困難を解決するわけでもなく、育てるわけでもなく、みんなの税金を使って「社会ガー」と言っているだけの専門家の方がよっぽど詐欺師に見えるのにね。
「発達障害の人も発達するのは当たり前だろ。でも、治らないから障害なんだ」と言う人もいます。
意味不明ですね。
発達障害のことを、遺伝性の障害ですとか、機能障害、身体障害と同じように捉えているのでしょう。
神経発達の障害である発達障害の人が、発達を続けたら、障害の部分が軽度化されていくし、その先には日常生活に影響を及ぼさない状態、本人が自覚することのない状態になっていくものです。
別に絵に描いたような普通の人(というか普通の人がどんな人かわかりませんが)になることが治ったということではありません。
そんなこと言いだしたら定型発達の人はいなくなり、世の中みんな発達障害を持つ人になります。
「治らないけど、発達する」という奇妙な説を唱える支援者や親御さんを見ますと、「子どもさん、ぜんぜん発達してませんけど」という場合が少なくありません。
発達するんだったら、治る一歩前まで、ちゃんと発達できるようにしたらよいのに、と思いますね。
こういった人の多くは、「発達するもん」と言いながら、子どもの発達を後押しするようなことをやっていない。
というか、育てる意味の勘違い、育てる方向性の違いがあります。
ヒトを育てるというのは、根気がいる営みです。
だけれども、どうもインスタントに結果を求めてしまう。
繰り返し、繰り返し、しかも見えない土台の部分から丁寧に育てていくことが「ヒトを育てる」なのに、見える部分で、すぐに結果が出るようなところばかりチョチョッといじくって、「はい、私は育てています」と言っちゃう感じ。
そういった人が療育に飛びついてしまいがちです。
そもそも『療育』とは治“療”と教“育”が合わさった言葉。
まあ、見事にギョーカイは、「治す」を捨ててしまっていますがね。
治さない療育は、デコボコの土地の上に家を建てようとしているようなもの。
当然、そんな土地の上に家が建てられるわけでもなく、だから昔の映画のセットのようなベニヤ板に絵を描いた家を吊るしてしまう。
見せかけの育ちですね。
いくら絵カードが使えるようになっても、いくらSSTで知識を得たとしても、いくらご褒美で特定の行動ができるようになっても、その子が育ったわけでも、発達したわけでもありません。
ただ適応しただけ、ただ振る舞い方を覚えただけ。
ヒトを育てるとは、三段構造になっていると私は考えています。
まず『生命を維持するため』の育てる。
子どもに必要な食事を用意し、しっかり休息できるような環境を整える。
病気や危険から守り、心身共に安心感を得られるような育てるです。
いわゆる快食快眠快便を整えることが土台の育ち。
その上には、動物として生きるための育てるがあります。
『生き抜くため』の育ちです。
神経を育て、内臓を育て、感覚を育て、動きを育てる。
生き抜くためには、生き抜ける身体が必要です。
自由自在に動かせる自分の身体となるように、遊びや運動、日々の生活を通して、子どもを育てていく。
子どもが主体的に伸びやかに成長できる環境を整えることと、子どもの発達に課題があれば、そこを丁寧に育て直すのが、ここで求められる育ちです。
そして一番上に、『人間として生きるため』の育てるがあります。
勉強をして知識を得る、技術を身につける、より良い人間関係の築き方、集団でのルールや協働の仕方を学ぶなど、多数の育ちがあり、育てるがあります。
人間として生きるための育ちとは、社会の中で生きるための育ちともいえます。
ヒトを育てるとは、このように『生命を維持するため』の育ちがあり、『生き抜くため』の育ちがあり、『人間として生きるため』の育ちがあるはずですし、それぞれの育ちが満たされることが必要だと思います。
どこかが満たされていなければ、次の段階の育ちがうまくいくはずもありません。
「社会の理解ガー」と言う前に、ちゃんと栄養のある食事を用意しなよ、しっかり眠れるように整えろよ、と思うことがあります。
「支援ガー」と言う前に、身体を育てなよ、子どもの発達の課題に注目しなよ、しっかり遊びきれる環境を用意しなよ、と思うことがあります。
生命を維持するための育ちが脆弱で、生き抜くための育ちに無頓着。
それなのに、人間として生きるための育ちを詰め込もうとする。
そんな表面だけを育てようとしているうちは、子どもは真の意味で発達しませんし、育っていきません。
年端もいかない子どもが診断を受ける。
で、快食快眠快便よりも、神経を育て、発達させることよりも、「重要なのは療育です」と言って、絵カードの使い方や模範的な振る舞い方の勉強、餌付けによる芸事ばかりやる。
神経発達が盛んな時期の子どもが育ちよりも、大人による対処ばかりされている現実。
これではいつまで経っても課題は解決しないし、本人の苦しみは治っていかない。
だから、親御さんは悩む。
そして専門家から返ってくるのは「発達はしますが、治りません」という一言。
治らないのは、そもそも療育によって育てていないからであって、ヒトの発達を無視しているからだといえます。
治すことを目指している人というのは、ヒトを育てる人達だと感じます。
見せかけの育ちではなく、根本から、土台からじっくり育てようとする人達。
だから、目の前にいる子をより良く発達させるアイディアや、それを持つ人を、特別支援という特殊な世界の中からだけではなく、広い世界から見つけようとします。
そういった姿勢や親子の営みの中、いつの間にか治っていく。
発達障害とは神経発達の障害なのですから、刺激を与え、育てようとしている限り、その子の発達は止まらないものなのです。
特定の集団にとって不都合な事実だったとしても。
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