早期療育の目的は、障害の軽度化であり、治すこと
早期療育の最大の目的は、障害の軽度化であり、より早い段階で治すということだと思います。
というか、それ以外ないと思います。
爬虫類の脳→哺乳類の脳→人間の脳という3段構造で発達していく脳。
中枢から末端へ、大きな動きから小さな動きへという発達の流れがあるのですから、神経発達の盛んな時期であって、ヒトとして生きる上での土台を育てる時期に、しっかり育てていくことが、その子の人生にとって大変意義のあることだといえます。
しかし、早期療育を謳っている支援者の中で、「障害の軽度化」と言う人はほとんどいません。
ましてや、「治す」なんて言う人はいません。
どうして軽度化も、治すも言わないのでしょうかね。
一般の人は、早期療育と聞けば、軽度化や治すを連想すると思います。
これは親御さんでも、そうではない人も。
反対に、早期から介入する目的が、障害の軽度化でもなければ、治すことでもないとしたら、「なんのためにするのか」「じゃあ、やる必要ないんじゃん」と思うでしょう。
そこでギョーカイが作りだしたのが「二次障害ガー」です。
二次障害で苦しんでいる成人の方達を使い、「この人達は、診断と支援を受けられなかったから、二次障害になった」と言う。
だから、「二次障害にならないために、早期診断、早期療育だ」と主張する。
でも、もう平成も終わるかという今、その手法は使い古された感があるし、誰もひっかからないんじゃないの、と私は思うのです。
これって、私が学生時代から言われていたことですから。
そもそもギョーカイがいくら早期療育を主張したとしても、軽度化も、治すも目指していないわけですから、その子は苦しいまま、課題を持ったまま大人になるはずです。
結局、苦しむ子を前にしてやるのは、環境調整か、服薬か、親御さんの対応と考えを変えるように促すか、です。
ここに育てるの視点がない。
育てる視点がなければ、いくら早期から介入したとしても、根本的な発達の課題は解決してきません。
つまり、課題に触れず、課題を見ずに、ただただ早期から介入しているだけ。
その子が将来、必ずなるか分からない二次障害を使って脅しをかけるのは、商売の手法としてはいただけませんし、もともと目的がなかったところに無理くり目的を作った感が否めません。
もし二次障害が起きないことが目的だとしたら、早期療育が必須ではありません。
むしろ、特別支援という世界に、支援者が扱いやすいような人物になるように促されるギョーカイの支援だったら受けない方がマシの場合もあります。
二次障害を治した支援者、二次障害を防いだ支援者はあまり耳にしませんが、支援者のせいで二次障害になった人はよく耳にします。
このようにギョーカイの行う早期療育は、育ちの視点がなければ、根本的な部分へのアプローチもないので、その子の持つ困難さ、発達のヌケや遅れは変わっていきません。
ですから、「早期療育のおかげで、問題行動が出なかった。二次障害にならなかった」というのは、根本的な苦しさを持ちつつ、ただ問題行動や二次障害が表れる機会をなくしているだけ。
「うちの施設にきたら、問題行動が見られないんです」と意気揚々と言う支援者のところに見学に行くと、四方囲まれた衝立の中で、ずっとDVDを観ているだけ、ということもあります。
これは問題行動が直ったわけでも、軽度化されたわけでもなく、ただ刺激がないから起こしていないだけ。
こういった育ちのない対処療法が、それ早期療育だ、それ支援の効果だ、なんて言っているのは、もう聞き飽きましたし、お腹いっぱいです。
100歩譲って、本当に早期療育が二次障害を予防するという目的と効果があったとしても、それってどうなのかなと思いますし、「じゃあ、早期療育やってみよう」と思うこと自体、私にはわかりません。
よく考えてみてください。
就学前の3,4歳の子どもを特定の機関に通わせて、絵カードの練習したり、トランポリンを跳んだりさせる。
それも、みんなから集めた税金を使って。
幼いときから、本人はもちろんのこと、家族にとっても大変な負担をかけながら、ずっと療育、支援を受け続け、最後に辿りつくのが、「はい、二次障害になりませんでしたね。おめでとうございます。パチパチ」で終わりです。
いやいや、年端もいかない子どもを大変な思いをしながら通わせて、それも小学校、中学校にあがっても、で、治ってないし、障害や症状が軽くなっていないのってなんなのさ、ってなりませんかね。
それだけの思いをして、早期から療育を受けてきたんだから、治せよ、せめても軽度化させろよ、って思いませんかね。
私なら当然、思います。
長い人なら、15年くらい支援を受け続け、結局、その子の持つ困難さは変わらず、自立せずだったら、もっと親子共々、楽しい子ども時代があり、もっと発達、成長する道があるのだと思います。
あるかないかわからない二次障害に恐れるよりも、今、子どもに必要な刺激だったり、育ちだったり、楽しい思い出を作る方がより良い人生につながるはずです。
振り返ったら、大変だった思い出ばかりで、浮かんでくるのは支援グッズと支援者の顔ばかり、というのは寂しいと思います。
ずーと「支援ガー」と言って、ずーと支援を受けてきた成人の人達が、「それが障害だから」という一言によって、治りたい希望が否定され、育つ機会と刺激を奪わられ過ごしている。
挙句の果てに、ずーと支援を受けてきた人が二次障害を持っていたりする。
私は思います。
二次障害は私が想像できないくらい辛いことだと思いますが、それと同じくらい育つ機会と刺激が奪われ、二次障害につながるようなきっかけすら与えられない人生も辛いことだと思います。
二次障害を忌み嫌うもののように言いますが、元を辿っていけば、人として成長するための必要な揺らぎ、ということもあると思います。
二次障害にならないことが早期療育の最大の目的だとしたら私は賛同できません。
「二次障害にならないための人生」
「二次障害にならない方が、扱いやすい人になる」
という言葉が聞こえてくるからです。
本来、早期療育とは、障害の軽度化、治すが目的になるはずであり、そこには『育ち』がなければなりません。
我が子をどう育てていくか、という選択肢には、特別支援での支援、ギョーカイの言う早期療育以外にも、たくさんあるのです。
それこそ、一人ひとり違うのですから、同じ発達障害という診断名だけで、同じ療育を受ける、受けるように促すのは辻褄が合いません。
早期療育=特別支援という捉えでしたら誤りです。
早期療育とは、子どもの発達の課題を見つけ、そこをその子に合わせて育てていく営み、すべてのことを指すのです。
そして向かう先は、課題の先送りではなく、扱いやすい子に育てることでもなく、障害の軽度化であり、治すだと思います。
というか、それ以外ないと思います。
爬虫類の脳→哺乳類の脳→人間の脳という3段構造で発達していく脳。
中枢から末端へ、大きな動きから小さな動きへという発達の流れがあるのですから、神経発達の盛んな時期であって、ヒトとして生きる上での土台を育てる時期に、しっかり育てていくことが、その子の人生にとって大変意義のあることだといえます。
しかし、早期療育を謳っている支援者の中で、「障害の軽度化」と言う人はほとんどいません。
ましてや、「治す」なんて言う人はいません。
どうして軽度化も、治すも言わないのでしょうかね。
一般の人は、早期療育と聞けば、軽度化や治すを連想すると思います。
これは親御さんでも、そうではない人も。
反対に、早期から介入する目的が、障害の軽度化でもなければ、治すことでもないとしたら、「なんのためにするのか」「じゃあ、やる必要ないんじゃん」と思うでしょう。
そこでギョーカイが作りだしたのが「二次障害ガー」です。
二次障害で苦しんでいる成人の方達を使い、「この人達は、診断と支援を受けられなかったから、二次障害になった」と言う。
だから、「二次障害にならないために、早期診断、早期療育だ」と主張する。
でも、もう平成も終わるかという今、その手法は使い古された感があるし、誰もひっかからないんじゃないの、と私は思うのです。
これって、私が学生時代から言われていたことですから。
そもそもギョーカイがいくら早期療育を主張したとしても、軽度化も、治すも目指していないわけですから、その子は苦しいまま、課題を持ったまま大人になるはずです。
結局、苦しむ子を前にしてやるのは、環境調整か、服薬か、親御さんの対応と考えを変えるように促すか、です。
ここに育てるの視点がない。
育てる視点がなければ、いくら早期から介入したとしても、根本的な発達の課題は解決してきません。
つまり、課題に触れず、課題を見ずに、ただただ早期から介入しているだけ。
その子が将来、必ずなるか分からない二次障害を使って脅しをかけるのは、商売の手法としてはいただけませんし、もともと目的がなかったところに無理くり目的を作った感が否めません。
もし二次障害が起きないことが目的だとしたら、早期療育が必須ではありません。
むしろ、特別支援という世界に、支援者が扱いやすいような人物になるように促されるギョーカイの支援だったら受けない方がマシの場合もあります。
二次障害を治した支援者、二次障害を防いだ支援者はあまり耳にしませんが、支援者のせいで二次障害になった人はよく耳にします。
このようにギョーカイの行う早期療育は、育ちの視点がなければ、根本的な部分へのアプローチもないので、その子の持つ困難さ、発達のヌケや遅れは変わっていきません。
ですから、「早期療育のおかげで、問題行動が出なかった。二次障害にならなかった」というのは、根本的な苦しさを持ちつつ、ただ問題行動や二次障害が表れる機会をなくしているだけ。
「うちの施設にきたら、問題行動が見られないんです」と意気揚々と言う支援者のところに見学に行くと、四方囲まれた衝立の中で、ずっとDVDを観ているだけ、ということもあります。
これは問題行動が直ったわけでも、軽度化されたわけでもなく、ただ刺激がないから起こしていないだけ。
こういった育ちのない対処療法が、それ早期療育だ、それ支援の効果だ、なんて言っているのは、もう聞き飽きましたし、お腹いっぱいです。
100歩譲って、本当に早期療育が二次障害を予防するという目的と効果があったとしても、それってどうなのかなと思いますし、「じゃあ、早期療育やってみよう」と思うこと自体、私にはわかりません。
よく考えてみてください。
就学前の3,4歳の子どもを特定の機関に通わせて、絵カードの練習したり、トランポリンを跳んだりさせる。
それも、みんなから集めた税金を使って。
幼いときから、本人はもちろんのこと、家族にとっても大変な負担をかけながら、ずっと療育、支援を受け続け、最後に辿りつくのが、「はい、二次障害になりませんでしたね。おめでとうございます。パチパチ」で終わりです。
いやいや、年端もいかない子どもを大変な思いをしながら通わせて、それも小学校、中学校にあがっても、で、治ってないし、障害や症状が軽くなっていないのってなんなのさ、ってなりませんかね。
それだけの思いをして、早期から療育を受けてきたんだから、治せよ、せめても軽度化させろよ、って思いませんかね。
私なら当然、思います。
長い人なら、15年くらい支援を受け続け、結局、その子の持つ困難さは変わらず、自立せずだったら、もっと親子共々、楽しい子ども時代があり、もっと発達、成長する道があるのだと思います。
あるかないかわからない二次障害に恐れるよりも、今、子どもに必要な刺激だったり、育ちだったり、楽しい思い出を作る方がより良い人生につながるはずです。
振り返ったら、大変だった思い出ばかりで、浮かんでくるのは支援グッズと支援者の顔ばかり、というのは寂しいと思います。
ずーと「支援ガー」と言って、ずーと支援を受けてきた成人の人達が、「それが障害だから」という一言によって、治りたい希望が否定され、育つ機会と刺激を奪わられ過ごしている。
挙句の果てに、ずーと支援を受けてきた人が二次障害を持っていたりする。
私は思います。
二次障害は私が想像できないくらい辛いことだと思いますが、それと同じくらい育つ機会と刺激が奪われ、二次障害につながるようなきっかけすら与えられない人生も辛いことだと思います。
二次障害を忌み嫌うもののように言いますが、元を辿っていけば、人として成長するための必要な揺らぎ、ということもあると思います。
二次障害にならないことが早期療育の最大の目的だとしたら私は賛同できません。
「二次障害にならないための人生」
「二次障害にならない方が、扱いやすい人になる」
という言葉が聞こえてくるからです。
本来、早期療育とは、障害の軽度化、治すが目的になるはずであり、そこには『育ち』がなければなりません。
我が子をどう育てていくか、という選択肢には、特別支援での支援、ギョーカイの言う早期療育以外にも、たくさんあるのです。
それこそ、一人ひとり違うのですから、同じ発達障害という診断名だけで、同じ療育を受ける、受けるように促すのは辻褄が合いません。
早期療育=特別支援という捉えでしたら誤りです。
早期療育とは、子どもの発達の課題を見つけ、そこをその子に合わせて育てていく営み、すべてのことを指すのです。
そして向かう先は、課題の先送りではなく、扱いやすい子に育てることでもなく、障害の軽度化であり、治すだと思います。
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