発達課題の見つけ方(年齢を重ねていった方の場合)
昨日は、「子どもは自分で発達に必要な刺激を求めていく」というようなことを書きました。
また文章の中で、「お勉強を始める前の子ども」「就学前の子ども」などの表現も用いました。
すると、このブログを読んでいた方から、「年齢が上がっていくと、どうなるの?」「大人はわからないのでしょうか?」といった質問がありました。
質問された方が気づかれたように、昨日のブログでは子ども、特に就学前の子どもという印象を持たれるような書き方をしていました。
もちろん、就学以降の子どもさんでも同じように、自分の発達で足りない部分を埋めようとする行動は見られます。
しかし、私の印象ではありますが、年齢が上がっていくと、本人も、周りも、「見えづらくなる」というのは感じます。
幼い子ども達のように、ストレートに行動に表れないのです。
その大きな理由の一つは、勉強を始める、言葉で考えるようになるからだと考えています。
幼い子ども達は、本能的な、直感的な動きを見せます。
その子の頭の中には、「自分に必要な刺激」「発達課題」などの言葉もなければ、概念もないでしょう。
しかし、お勉強を始めると、言葉で考えるようになるので、段々分からなくなっていくのです。
たとえば、自分で必要な刺激を求めて動いている子どもに対して、「きみの発達課題はなんですか?」と尋ねても、答えられるはずはありません。
彼らは、言葉で発達課題を捉えているのではなく、身体で発達課題を捉えています。
実際に、本人たちの言葉で聞いたことはありませんが、傍から見ている私などは、必要な刺激に身体が引きこまれている風に見えます。
身体が欲し、感覚が欲している、といった感じです。
一方で、年齢が上がり、勉強を始め、言葉で考えるようになってくると、自分の身体の叫び、感覚の叫びよりも、頭の中の言葉に耳を傾けるようになります。
言葉で発達を捉えるのは難しいことです。
発達とは、外側で得られる情報ではなく、身体の内側で起きている変化だからです。
内から外への発達、つまり、身体という土台が育ったあと、知識や技術といったものを身に付けていのが自然なのですが、発達障害の人達は、土台が育ちきる前に、知識や技術の獲得へ歩みを進めてしまうことがよくあります。
そうなると、あとから言葉で考えて、「自分に足りない刺激って何だっけ」と思っても、なかなか感じとることができません。
それが就学前の子ども達との違いだと思います。
言葉で考えることが普通になると、自分に必要な刺激になかなか気づかなくなる。
また「発達のヌケ」というのも、「こういった場面で、いつも失敗するから、自分にこんな課題があって、その課題の背景は…」という具合にパッと見ることができなくなりますし、同時に迷いや間違いが生じやすくなります。
特に成人した方達は、言葉で考えてきた期間が長いだけではなく、そこにいろんな経験も加わりますので、益々、「自分に必要な刺激って何だろう??」となる。
頭と経験で考えると、迷路の中に入りこんでいきます。
ですから、ある程度の年齢の方には、言葉を通して、感覚を呼び起こす工夫が必要になります。
そのとき、用いられるのが、「気持ちいい」であり、「幸せ」であり、「ワクワクする」などです。
その人の内側が動き出すような、その動きと共に、自分の内側に意識が向いていくような言葉を使って、身体へと誘います。
そういったやりとりを通して、徐々に意識が頭から解放され、自分が求めていた刺激に辿りつく。
そこまでくれば、あとは、自分自身で育てなおしていくのみです。
自分の発達に必要な刺激は、いくつになっても自分自身が一番わかることだと思います。
しかし、言葉で考えるようになってくると、お勉強が始まり、知識や経験が増えていくと、見えづらくなるものだとも思います。
「自分の発達に必要な刺激がわからない」という方には、上記のような言葉を使った誘いも行いますし、それより前に身体をラクにすることから始めることもあります。
また、それでも見えてこない状態が続きますと、親御さんから幼少期のお話を伺い、当時夢中になっていた遊び、活動を確認し、そこから皆さんと一緒に読み解くことも行います。
「そういえば、うちの子、〇〇という遊びばっかりしていたよね」
そういった思い出の中から、当時の本人に「発達に必要な刺激はなに?」と尋ねると、結構、見えてくるものです。
ですから、今、就学前のお子さんを育てられている親御さんは、どんな遊び、運動に夢中になっているかを心に留めておくことが、未来の発達援助へとつながることがあると思います。
『子どもも、青年も、大人も、自分自身が発達に必要な刺激を一番知っている』というのは変わりないですが、その見え方、見つけ方に違いが出てくる点だけ押さえておくのが良い、というのが、私が仕事をする中で感じたことです。
どなたかの参考になれば、と思い、文章にしました。
また文章の中で、「お勉強を始める前の子ども」「就学前の子ども」などの表現も用いました。
すると、このブログを読んでいた方から、「年齢が上がっていくと、どうなるの?」「大人はわからないのでしょうか?」といった質問がありました。
質問された方が気づかれたように、昨日のブログでは子ども、特に就学前の子どもという印象を持たれるような書き方をしていました。
もちろん、就学以降の子どもさんでも同じように、自分の発達で足りない部分を埋めようとする行動は見られます。
しかし、私の印象ではありますが、年齢が上がっていくと、本人も、周りも、「見えづらくなる」というのは感じます。
幼い子ども達のように、ストレートに行動に表れないのです。
その大きな理由の一つは、勉強を始める、言葉で考えるようになるからだと考えています。
幼い子ども達は、本能的な、直感的な動きを見せます。
その子の頭の中には、「自分に必要な刺激」「発達課題」などの言葉もなければ、概念もないでしょう。
しかし、お勉強を始めると、言葉で考えるようになるので、段々分からなくなっていくのです。
たとえば、自分で必要な刺激を求めて動いている子どもに対して、「きみの発達課題はなんですか?」と尋ねても、答えられるはずはありません。
彼らは、言葉で発達課題を捉えているのではなく、身体で発達課題を捉えています。
実際に、本人たちの言葉で聞いたことはありませんが、傍から見ている私などは、必要な刺激に身体が引きこまれている風に見えます。
身体が欲し、感覚が欲している、といった感じです。
一方で、年齢が上がり、勉強を始め、言葉で考えるようになってくると、自分の身体の叫び、感覚の叫びよりも、頭の中の言葉に耳を傾けるようになります。
言葉で発達を捉えるのは難しいことです。
発達とは、外側で得られる情報ではなく、身体の内側で起きている変化だからです。
内から外への発達、つまり、身体という土台が育ったあと、知識や技術といったものを身に付けていのが自然なのですが、発達障害の人達は、土台が育ちきる前に、知識や技術の獲得へ歩みを進めてしまうことがよくあります。
そうなると、あとから言葉で考えて、「自分に足りない刺激って何だっけ」と思っても、なかなか感じとることができません。
それが就学前の子ども達との違いだと思います。
言葉で考えることが普通になると、自分に必要な刺激になかなか気づかなくなる。
また「発達のヌケ」というのも、「こういった場面で、いつも失敗するから、自分にこんな課題があって、その課題の背景は…」という具合にパッと見ることができなくなりますし、同時に迷いや間違いが生じやすくなります。
特に成人した方達は、言葉で考えてきた期間が長いだけではなく、そこにいろんな経験も加わりますので、益々、「自分に必要な刺激って何だろう??」となる。
頭と経験で考えると、迷路の中に入りこんでいきます。
ですから、ある程度の年齢の方には、言葉を通して、感覚を呼び起こす工夫が必要になります。
そのとき、用いられるのが、「気持ちいい」であり、「幸せ」であり、「ワクワクする」などです。
その人の内側が動き出すような、その動きと共に、自分の内側に意識が向いていくような言葉を使って、身体へと誘います。
そういったやりとりを通して、徐々に意識が頭から解放され、自分が求めていた刺激に辿りつく。
そこまでくれば、あとは、自分自身で育てなおしていくのみです。
自分の発達に必要な刺激は、いくつになっても自分自身が一番わかることだと思います。
しかし、言葉で考えるようになってくると、お勉強が始まり、知識や経験が増えていくと、見えづらくなるものだとも思います。
「自分の発達に必要な刺激がわからない」という方には、上記のような言葉を使った誘いも行いますし、それより前に身体をラクにすることから始めることもあります。
また、それでも見えてこない状態が続きますと、親御さんから幼少期のお話を伺い、当時夢中になっていた遊び、活動を確認し、そこから皆さんと一緒に読み解くことも行います。
「そういえば、うちの子、〇〇という遊びばっかりしていたよね」
そういった思い出の中から、当時の本人に「発達に必要な刺激はなに?」と尋ねると、結構、見えてくるものです。
ですから、今、就学前のお子さんを育てられている親御さんは、どんな遊び、運動に夢中になっているかを心に留めておくことが、未来の発達援助へとつながることがあると思います。
『子どもも、青年も、大人も、自分自身が発達に必要な刺激を一番知っている』というのは変わりないですが、その見え方、見つけ方に違いが出てくる点だけ押さえておくのが良い、というのが、私が仕事をする中で感じたことです。
どなたかの参考になれば、と思い、文章にしました。
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