その子の内側にある発達、成長の流れ
学生時代、講演会で聞いた(当時の)ローカル有名支援者の言葉が印象に残っています。
「この子達は、現状維持できただけで良しとしなきゃダメだよ。悪くなるのが普通だから」
学生だった私は、「自閉症の人は年齢を重ねていくと症状が重くなる傾向があるのか」なんて素直に受け取りましたが、今思い返してみれば、なんとも失礼で、本人たちの内なる力を低く見積もった言動だなと思います。
結局、言っているのは「自分たちにはどうしようもできない」ということであり、当時から続く、構造化信仰の地ですから、「構造化された環境の中で穏やかに過ごすのがベスト」ということだったのでしょう。
「〇〇療法だって、子どもの成長を促す」
「〇〇療法をやるようになってから、子どもが落ち着いた」
「少しずつだけれども、成長しているんです」
と言われる支援者や親御さんがいます。
当然、みなさん大好きなエビデンスのある療法ですから、子どもさんは成長するのでしょう。
子どもは発達するし、成長する。
でも、これって当たり前じゃないですかね。
別の言い方をすれば、支援や〇〇療法を受けなくたって、子どもなんだから、生きているんだから、日々発達するし、成長する。
私のブログは癖が強え~ため、「大久保は、〇〇療法、全否定派だ」なんて思っている方がいます。
実際に相談に来られる方、依頼される方も、「どうぞ今まで私達がやってきた〇〇療法をぶった切ってください」「もう切られる覚悟はできていますから」なんて雰囲気が漂っている場合もあります。
でも、むしろ私は「治る」という知見に出会うまでの10年間くらいは、対処療法ばかり行っていましたし、あらゆる対処療法、エビデンスのある方法を学んできました。
対処療法が必要な場合や人がいることもわかりますし、その分、限界もわかります。
ですから、私のところにいらっしゃる方には、特定の療法を続けたければ続ければいいし、良い効果が得られていると感じているのならそれでいいのですと伝えています。
こんな風に書くと、「あのとき、〇〇療法を否定したじゃないか」と思われる方がいるはずです。
じゃあ、なぜ、私が〇〇療法を否定したのか、なぜ、〇〇療法よりも、発達のヌケや遅れを育て治す方を勧めたのか。
それは発達のスピード、成長の勢いに問題が見えたからです。
先ほど述べたように、特に子どもの場合、特定の療法や機関に通わなくても、快食快眠快便という基本的な部分が満たされていれば、自らの力で発達し、成長するものです。
「発達障害を持つ子には支援ガー、療育ガー」なんていうのは、ギョーカイの営業トークであり、「療育を受けないと、うちの子は育たないかも…」と親御さんを思わせるのが目的の一つです。
何か月も待機者名簿に載り続け、時間をかけて通った機関でトランポリンを跳ぶくらいだったら、近くの公園に行って思いっきり遊んだ方が成長しますね。
療育は部分的だけれども、遊びは全面的な発達、土台作りにつながりますから。
700万年、ヒトの子どもは遊ぶことを通して、身体を動かすことを通して発達、成長してきたのであって、人工的な道具や座ってのお勉強をして発達、成長してきたのではないのです。
子どもであっても、5年なら5年の、10年なら10年の流れというものがあります。
その流れを見たとき、その支援、療育がその子の持つ発達、成長の流れと調和しているのか、加速させているのかが重要なのです。
「この支援、療育をしてから成長した」と言われる子を見ますと、確かに成長しているのがわかります。
でも、その成長の度合いが、その子に流れている成長の流れと比べると、明らかに減速しているのがわかることもあります。
そういった場合、本当にその療育がよい選択なのだろうか、他の発達の後押しの仕方があるのではないかと思うのです。
ましてや、「この療育をしてから落ち着いた」というのは、危険な状態、最悪な状態から抜け出したという意味では良いのかもしれませんが、同時に発達、成長の流れが堰止めされた状態ではないかと心配になることもあります。
発達のヌケや遅れの部分が育ったために「落ち着いた」なら良いのですが、刺激を統制しきることで「落ち着いた」なら、問題を起こせないことと引き換えに、発達、成長の機会を無くしたともいえます。
極端なことを言えば、何もしなくても、子どもは発達するし、成長します。
特に人間としての土台の部分は。
その療法をやるようになってから成長したのかもしれませんが、それは以前よりも子どもの成長に注目するようになったからかもしれませんし、そもそも「その療育をやった“から”」成長したのかは言い切ることができません。
私が出会ってきた子ども達の中には、拒絶や問題行動として表出しないけれども、その療法が発達、成長する勢いを止めていたという子もいました。
そういった子の多くは、発達のヌケや遅れを育てなおす方向性に変えると、驚くような成長を遂げるのです。
そんな我が子の変化を目の当たりにして、子どもの内なる力を感じる親御さんの姿があります。
冒頭の支援者の言葉のように、「発達障害を持つ子ども達は現状維持できたら、安定して過ごせたら良い」なんてことは決してないと思いますし、特別な支援や療育がなければ、育つことのできない子達だとは思いません。
定型発達、非定型発達に関わらず、子どもは、ヒトはみんな自らの内側に発達、成長させる力を持っている。
ただ違いがあるとすれば、言語を獲得する以前の発達段階にヌケや遅れがあるために、それこそ、発達、成長の流れが堰止められている状態だという点でしょう。
私は、「支援、療育がなければ」「支援、療育があったから」という言葉が嫌いです。
何故なら、直接的ではありませんが、発達障害を持っている子ども達の力を低く見積もっている感じがするからです。
だから私は、子ども達の内側にある一人ひとりの流れを懸命に感じようとします。
その流れを邪魔せず、調和し、加速させるアイディア、方法なのかが重要なのです。
ただ「成長を感じるからイイや」「落ち着いたからイイや」では、本当にその子に合った支援、療育だとはいえません。
「この子達は、現状維持できただけで良しとしなきゃダメだよ。悪くなるのが普通だから」
学生だった私は、「自閉症の人は年齢を重ねていくと症状が重くなる傾向があるのか」なんて素直に受け取りましたが、今思い返してみれば、なんとも失礼で、本人たちの内なる力を低く見積もった言動だなと思います。
結局、言っているのは「自分たちにはどうしようもできない」ということであり、当時から続く、構造化信仰の地ですから、「構造化された環境の中で穏やかに過ごすのがベスト」ということだったのでしょう。
「〇〇療法だって、子どもの成長を促す」
「〇〇療法をやるようになってから、子どもが落ち着いた」
「少しずつだけれども、成長しているんです」
と言われる支援者や親御さんがいます。
当然、みなさん大好きなエビデンスのある療法ですから、子どもさんは成長するのでしょう。
子どもは発達するし、成長する。
でも、これって当たり前じゃないですかね。
別の言い方をすれば、支援や〇〇療法を受けなくたって、子どもなんだから、生きているんだから、日々発達するし、成長する。
私のブログは癖が強え~ため、「大久保は、〇〇療法、全否定派だ」なんて思っている方がいます。
実際に相談に来られる方、依頼される方も、「どうぞ今まで私達がやってきた〇〇療法をぶった切ってください」「もう切られる覚悟はできていますから」なんて雰囲気が漂っている場合もあります。
でも、むしろ私は「治る」という知見に出会うまでの10年間くらいは、対処療法ばかり行っていましたし、あらゆる対処療法、エビデンスのある方法を学んできました。
対処療法が必要な場合や人がいることもわかりますし、その分、限界もわかります。
ですから、私のところにいらっしゃる方には、特定の療法を続けたければ続ければいいし、良い効果が得られていると感じているのならそれでいいのですと伝えています。
こんな風に書くと、「あのとき、〇〇療法を否定したじゃないか」と思われる方がいるはずです。
じゃあ、なぜ、私が〇〇療法を否定したのか、なぜ、〇〇療法よりも、発達のヌケや遅れを育て治す方を勧めたのか。
それは発達のスピード、成長の勢いに問題が見えたからです。
先ほど述べたように、特に子どもの場合、特定の療法や機関に通わなくても、快食快眠快便という基本的な部分が満たされていれば、自らの力で発達し、成長するものです。
「発達障害を持つ子には支援ガー、療育ガー」なんていうのは、ギョーカイの営業トークであり、「療育を受けないと、うちの子は育たないかも…」と親御さんを思わせるのが目的の一つです。
何か月も待機者名簿に載り続け、時間をかけて通った機関でトランポリンを跳ぶくらいだったら、近くの公園に行って思いっきり遊んだ方が成長しますね。
療育は部分的だけれども、遊びは全面的な発達、土台作りにつながりますから。
700万年、ヒトの子どもは遊ぶことを通して、身体を動かすことを通して発達、成長してきたのであって、人工的な道具や座ってのお勉強をして発達、成長してきたのではないのです。
子どもであっても、5年なら5年の、10年なら10年の流れというものがあります。
その流れを見たとき、その支援、療育がその子の持つ発達、成長の流れと調和しているのか、加速させているのかが重要なのです。
「この支援、療育をしてから成長した」と言われる子を見ますと、確かに成長しているのがわかります。
でも、その成長の度合いが、その子に流れている成長の流れと比べると、明らかに減速しているのがわかることもあります。
そういった場合、本当にその療育がよい選択なのだろうか、他の発達の後押しの仕方があるのではないかと思うのです。
ましてや、「この療育をしてから落ち着いた」というのは、危険な状態、最悪な状態から抜け出したという意味では良いのかもしれませんが、同時に発達、成長の流れが堰止めされた状態ではないかと心配になることもあります。
発達のヌケや遅れの部分が育ったために「落ち着いた」なら良いのですが、刺激を統制しきることで「落ち着いた」なら、問題を起こせないことと引き換えに、発達、成長の機会を無くしたともいえます。
極端なことを言えば、何もしなくても、子どもは発達するし、成長します。
特に人間としての土台の部分は。
その療法をやるようになってから成長したのかもしれませんが、それは以前よりも子どもの成長に注目するようになったからかもしれませんし、そもそも「その療育をやった“から”」成長したのかは言い切ることができません。
私が出会ってきた子ども達の中には、拒絶や問題行動として表出しないけれども、その療法が発達、成長する勢いを止めていたという子もいました。
そういった子の多くは、発達のヌケや遅れを育てなおす方向性に変えると、驚くような成長を遂げるのです。
そんな我が子の変化を目の当たりにして、子どもの内なる力を感じる親御さんの姿があります。
冒頭の支援者の言葉のように、「発達障害を持つ子ども達は現状維持できたら、安定して過ごせたら良い」なんてことは決してないと思いますし、特別な支援や療育がなければ、育つことのできない子達だとは思いません。
定型発達、非定型発達に関わらず、子どもは、ヒトはみんな自らの内側に発達、成長させる力を持っている。
ただ違いがあるとすれば、言語を獲得する以前の発達段階にヌケや遅れがあるために、それこそ、発達、成長の流れが堰止められている状態だという点でしょう。
私は、「支援、療育がなければ」「支援、療育があったから」という言葉が嫌いです。
何故なら、直接的ではありませんが、発達障害を持っている子ども達の力を低く見積もっている感じがするからです。
だから私は、子ども達の内側にある一人ひとりの流れを懸命に感じようとします。
その流れを邪魔せず、調和し、加速させるアイディア、方法なのかが重要なのです。
ただ「成長を感じるからイイや」「落ち着いたからイイや」では、本当にその子に合った支援、療育だとはいえません。
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