【No.1301】前提がバカだと、出てくる答えもバカになる

「42万人死ぬ」というのは、前提が「感染対策をなにもしなければ」という前提があった。
富岳の飛沫実験も、前提が「マネキン」「口をあけっぱなし」「飛沫をよけない(笑)」「免疫は考慮しない」だった。
前提が変われば、出てくる数値、結果は変わるもので、いくら権威やスーパーコンピューターが導きだした答えだとしても前提が間違えば、答えも間違うものです。
ですから、「エビデンスが~」と言う前に、その前提条件を確認することが必要になるでしょう。


人間というのはそれほど賢くできていないと私個人は思っていますので、前提を間違うのは仕方がないと思います。
しかし、新たな見解、知見が出てくるのに、その前提に固執したり、意図的に自分に有利なように前提を操作したりするのは間違っていると思います。
ですから、3年目に入っても「エボラ並みの未知のウィルス」という前提を変えようとしないのも、発達障害は「生まれつきで、治らない障害」という前提を変えようとしないのも、間違いです。


間違った前提だと間違った答えが出る。
間違った答えを見て、「前提が間違っているのでは?」と考えるのが科学的な思考だといえます。
発達障害は生まれつきで、生涯治らない障害と言っていたけれども、支援級から普通級に行く子もいるし、同世代と同じように進学し、就職し、結婚する人もいる。
となれば、それは「治らない」というのではなく、「治ることを知らなかっただけ」ということになります。
感覚過敏や身体の不器用さ、相手の気持ちを察することなどは「特性」であり、「できない」とされていたけれども、単にアセスメントが荒かっただけで、その改善の仕方、育て方を知らなかっただけということになります。
前提はズルができても、数値、結果、治ったという人はズルができませんので。


もっと細かいことで言えば、たとえば「言葉がない子に絵カードは必要ですか?」などのご質問を頂きます。
ですが、そこで大事なのは「絵カードの有効性」ではないのです。
どういった前提で、その絵カードが導入されようとしているか?
いま、その子の内側に伝えたいという想いが溢れている。
だけれども、まだ言葉を使って表現することが難しい。
だから、言葉を獲得する前、いま、緊急的に絵カードを使おう、というのでしたら意義のある支援になると思います。


一方で「この子は重度で、自閉症だから」絵カードという場合もあります。
この場合、前提が間違っているので、間違っているというか、この子がどのような発達を遂げるか、生涯言葉がなく、重度の知的のままなのかがわからないのに、決め付けのような前提を持ち、支援に向かっているので問題だといえるのです。
こういった誤った前提を設定してしまうと、その後、この子が発達、成長したとしても、その兆しを見せたとしても、周囲は気づかず、そのまま絵カードを使い続けるでしょう。
そうなると、せっかく伸びようとしている言葉もその機会を得ないまま、萎んでしまう。
それがよくある「作られた障害」であり、支援にどっぷり浸かれば浸かるほど、「障害者っぽくなっていく」現象だといえます。


最初に出会った医師が「治らない」と言ったため、それを信じてしまう親御さんがいても仕方がないと思います。
しかし、その前提は共に暮らし、歩んでいく中で揺らいでいくはずなのです。
ただ不幸にも、コロナ騒動と同じように、前提が揺らぎそうになると、「治るなんてデマだ」「支援をたくさん受けることが幸せなんだ」「頼れる場所をたくさん作ることが大事」「もし二次障害になったら」なんていう声が聞こえてくる。
もちろん、弱毒コロナで重症化する人もいるけれども、ほとんどの人は軽症か無症状。
二次障害になるのだって、特殊な例であって、だから支援を受けなければ、みんな二次障害になるということにはなりません。


大事なのは、二次障害になる子の個人的な環境、条件でしょ。
自閉症だからではなく、自閉症という特性にどういった環境、条件がプラスされると二次障害になる、そのリスクが上がるかという研究ってしていますかね。
「高齢者」「高血圧」「常時服薬あり」「要介護3以上」「ワク×3回済み」が高リスク群、重症化、死亡しやすい、といった情報は出てこない。
出てこないから、全員、同じリスクがあるように錯覚する。
3日1回、PCRで500円のクオカード。
「重度判定の方が貰えるお金が多い」と同じように、日本人はどこまでさもしい民族になったのか。


否応なしに、陽性判定された妊婦さんの多くは、帝王切開による出産。
これも前提が間違っているから、こんな馬鹿げたことが続いている。
というか、医療的ケア児や発達障害の子ども達を診ている医師たちは、なんで声をあげない??
帝王切開と子どもの心身の健康、発達障害の関係性に気がついているでしょ。
というか、仲間内ではそう言っていたじゃないですか。
「母子の命を守るために」という前提があり、やむを得ず帝王切開を選択するのと、「コロナがエボラ並みのウィルス」という前提、医師、スタッフに陽性者が出ると経営上、労力上、手続き上、大変になるという「お金前提」「(妊婦さんではなく、これから生まれてくる赤ちゃんではなく)自分たちが優先」という前提が間違っているのです。


過剰な感染対策によって、子ども達の発達の機会が奪われ、発達に遅れや凸凹が生じる。
それだけではなく、「今だけ、カネだけ、自分だけ」の医療が、妊婦さんがどのように生みたいのかという選択肢を、赤ちゃんがどのようにこの世に出てくるかという選択肢を奪っている。
こんなことが許されてよいのでしょうか。
エボラ並みで母子ともに、また医師やスタッフの命が危ぶまれるのなら仕方がないと思いますが、帝王切開によって使い切れなかった原始反射が残ったら、産道を通るときにお母さんから細菌などを貰えなかったら、肺呼吸に切り変わる過程をふめず呼吸の発達に遅れが出たら、突然明るい世界に出てくる恐怖がこの世に対するトラウマ、恐怖麻痺反射を強固のものにしたら…。
「あのとき、時代は仕方がなかった」と、発達障害を抱える子ども達と家族の前で言うことができるのでしょうか。


夏休みの間も、「治った」「治った」というメールや声をたくさんいただいております。
時々、上記のようなことを想うと、やり切れない思いにもなりますが、「治らない」という前提を疑い、「治るんだ」という前提を確固たるものにしている子ども達、若者たち、ご家族、支援者たちとともに、私も頑張らなければと気を引き締めています。
隠しきれないコロナ対策の過ちによる発達障害児の増加。
そのときが、「生まれつき」「生涯の」「治らない」という前提がぶっ壊れるときだと想像しています。
少しでも良い未来を子ども達、次の世代の親御さん達に残すために、皆さま、一緒に頑張りましょう!





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