【No.1184】治すのは本人、治る場所は社会全部

久しぶりに更新したためか、一昨日・昨日の記事にアクセスが集中していました。
ブログを読んでくださった方からのメールもたくさん来ていて、個別にはすべて返信しましたが、もう少し説明した方が良いかなと思い、今日も綴っていきます。


まず食事の件ですが、添加物の影響について2つの話が混在していて分かりづらかったかもしれません。
子どもさんがインスタント食品やお菓子、飲料水、ファーストフードなどを食べるから「治らない」ということではありません。
確かに糖質や添加物を摂ると、衝動性や多動性、こだわりなどの症状が強くなる子がいます。
ですから、そういったものを減らしていくと、「落ち着いて見える」ということはあるでしょう。
実際、ADHDと言われていた子が食事を見直すと、落ち着いて勉強に臨めるようになったということがあります。
しかし、食事の見直しだけで改善するとしたら、それはただの誤診であり、生活の乱れや添加物に対する生体の反応として一時的な症状が出ていただけだといえます。


じゃあ、そういった一時的な症状を表している子ではない場合、何がまずいかと言えば、そういったインスタントな食品、添加物の多く入った食品を好んで食べている間は、神経発達が起きづらいだろうな、そもそも神経発達の準備が整っていない状態だよな、ということです。
私はアセスメントで、どんなものを食べているかは必ずチェックします。
そこでそういったものを好んで食べているようでしたら、もちろん、そんな貧しい食事では栄養の面で満たされた状態だとはいえませんし、嗅覚・味覚をはじめとした感覚、消化器系の働きの課題や未発達を疑います。
嗅覚や味覚は原始的な感覚の部分であり、発達の土台なので、そして消化器系も、ここが育っていないとしたら、その上に発達を積み上げていこうとしてもなかなかうまくいかないものです。
また食事の課題は愛着の課題とリンクしていることが多いので、ここも育ちにくさと繋がっていると考えます。


つまり、インスタント食品などを好んで食べている、それしか食べないというのは、まだ神経発達が育つだけの準備が整っていないということです。
なので、私は「生野菜食べられますか?」とよく尋ねます。
生野菜というのは複雑な味であり、同じ野菜でも微妙に化合物の量や種類に違いがあります。
その複雑な味や一つとして同じ味ではない野菜を生で食べられるというのは、嗅覚や味覚の育ちを見る基準となります。
もちろん、嗅覚・味覚に大きな発達の遅れがあり、ほとんど味を感じていない、ゆえになんでも食べられるものは食べる、という状態の子を見抜くことは大事ですが。
生野菜を食べられるようになった子が、ググッと発達するというのはよく見る姿です。


あと親の世代におけるインスタント食品、添加物、化学物質の影響ですが、これは神経発達症が障害全体で言えば軽度の障害に当たることを考えれば、大人たちが長年の生活の中で蓄積してきたものが次の世代に影響を及ぼし、神経の繋がりに軽微なエラーを起こしたと考えるのは妥当だと思います。
代々「ハイハイを抜かす家庭」というような遺伝的な運動発達のパターンゆえの【発達のヌケ】とは異なり、胎児期に繋がっておくべきところ同士が繋がっていない、ゆえの【発達の遅れ】がそれなのでしょう。
発達のヌケはバランスを崩した状態でのいびつさを感じ、発達の遅れは神経が伸びにくそうにしている息苦しさを感じます。
また親御さん自体の食事が乱れていると、当然、エネルギーが出ませんので、一緒に遊べなかったり、頭でっかちになったり、誰かの言ったことをそのままやってしまったり、試行錯誤ができなかったり…となって、それが結果的に子どもの子育てからの発達への影響という面もあると思います。


次に「治らない子」の話題についてですが、治らないまま、大人になり、自立して生活している若者を何人も知っています。
今の小さい子どもさんたちのように、未発達の子がそれぞれのタイミングで育ち、本来の姿に戻ったというのは、どこからどう見ても普通の子なので、周囲から見れば「治った」といえる状態でしょう。
私個人の意見としては、この子達は「治った」というよりも「育った」だと思いますが。
で、治らないまま、大人になった若者たちと言うのは、一般の20代、30代と比べれば、「ちょっと変わっているな」「できないことがあるな」という感じで、普通の人という基準で言えば、治ったとはいえないと思います。
しかし、社会全体から見れば、変わっていようが、多少できないことがあろうが、どうでもよい話で、任された仕事を行い、他人に危害や迷惑をかけるようなことがなく、身の回りのことを自分で行いながら生活できていればよいわけです。


そういった人達は幼児期、小学校低学年のときにドカンが来て、治っちゃった、ということはありません。
とにかく時間をかけて、コツコツとゆっくり丁寧に育ち、課題を克服していった人達だといえます。
未発達の子が本来の発達の流れに戻った状態だとすれば、この方達は不具合を一つ一つ作り変えて形作った状態とも見えます。
就学時に発語がなかった、重度の判定が出ていた、支援学校に通っていた。
だから、親御さんと話しても、「治る」とは思っていなかったし、そんなことを考えてもいなかったけれども、少しでも生きやすくなるように、自立的な生活ができるように、と10年、20年積み上げていった結果、気が付けば一般就労ができたということがあります。
重度から中度、中度から軽度と、時間をかけて変わっていく人たちがいます。


同世代と同じような普通の人になる、IQでいえば、90以上になる、という意味では「治らない人」がいるのも事実です。
私が出会ってきた治っていないけれども、社会人として謳歌している若者たちもそうです。
しかし、彼らが、また彼らの親御さん達が、「どうせ治らないから」と言って、発達の課題と向き合わず、またそこを育てることをして来なければ、子育てではなく支援だけをしていれば、学校卒業後働くことはできなかったと思います。


このような敢えて言えば、普通の人になるという意味の「治らない人」は、何よりも根気が必要です。
そして多くのご家庭は、小学校入学後、学年が上がって行くたびにフェードアウトしてしまう。
最初、「治したい」「治ってほしい」「将来は自立を」と言って頑張っていた親御さん達も、年数が経つと心が折れ、支援に預けてしまう姿を幾度となく私も見てきました。
ですから、これは無理もないことだと思います。
親も年を取りますし、介護や他の兄弟のことなど、状況は年々変化していくのですから。


治っていないけれども、働いている人、自立している人はいます。
変人枠で社会を謳歌している人も大勢います。
じゃあ、彼らはどうしてそれが叶っているかといえば、ゆっくりでも進み続けたから。
私が出会ってきた方達の中ですが、共通するのはみなさん、現状に満足しない人でありました。
「もっと私はできる!」「絶対にできるようになってみせる!」
そんな想いを言葉や態度で示していた姿が印象に残っています。
たとえ親が年を取って疲れちゃっても、学校がポンコツであっても、くだらない専門家が支援の世界へと手を指し伸ばしてきても、本人に変わりたい、課題を克服したいという意思があれば、発達の課題はクリアできることが多いと思います。
神経発達症は、神経が欠損している障害でも、神経発達が生じない障害でもないのですから。


親御さんも、学校の担任も、地元の支援者も、口を揃えて「普通の大学は無理だ」「親もと離れての生活は無理だ」と言った。
でも、自分の意思で大学進学を決め、在学中、トラブルがあったり、留年があったりしたけれども、なんとか卒業し、就職した若者もいました。
そういった姿を見るたびに、治すのは本人だと思うのです。
あくまで親御さんも、先生も、支援者も、本人の背中を押す存在でしかない。
そう考えると、ますますギョーカイも、私のような支援者もいらないし、こだわる必要は決してない。
ましてや、支援級や支援学校、放課後児童デイなどは可能性を狭める可能性すらある。
本人が変わりたいと思い、そのきっかけやアイディアを貰えるのなら、専門家、先生、支援者に限定する必要はないのだから。
治すのは本人、治る場所は社会全部です。




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