「知ってほしい」と口では言いながら、配慮の要求がチラついてるよ

通常学級の担任の先生に、発達障害に関する本を持っていったら、「僕は無理です。結構です」と受け取ってもらえなかったという話を聞きました。
この先生にはお会いしたことがないので、どういった意図で、そのような言動に至ったのかはわかりませんが、対応の仕方がうまくないように思っちゃいました。
特別支援を学ぶ以前の話として、自分が受け持った学級の子どもを知ろう、理解しようとするのは教師の務めだと思いますね。
障害の有無に関わらず、子どもに近づいていこうとする姿勢が見える先生の方が信頼できますね。

でも、一方的にこの先生が悪いって思えないんですよね。
なんで担任の先生は受け取らなかったのか、を想像しちゃうと。
こういったケースって特殊なのかなと思いきや、結構あちこちであるんですよ。
拒否しないまでも、気が進まないことって。
じゃあ、なんでって言ったら、理解の先が見えるから。
つまり、口では「知ってもらいたい」「理解してもらいたい」と言いながら、その先には「こうして欲しい」という要望があるのが、ひしひしと伝わってくるからだって。

ただ「子どもを理解してほしい」という要望でしたら、普通の先生は拒否するわけないんですよ。
でも、冒頭の先生が言っていた「僕には無理です」っていう言葉には、子どもを理解することではなく、お母さんが求めるような療育、個別の対応は無理ですっていうようにも聞こえるんですね。
通常学級の先生の大部分は、学生時代に特別支援教育を専攻しているわけではありませんし、特別支援ではなく、通常学級での教育を志した人です。
そんな先生に、最初から理解の先をちらつかせるような要望の仕方は、こちらの対応の仕方もうまくないと思いますね。

当事者の方やご家族の「理解してほしい」という要望が、相手側に受け入れられないときって、要望の先に配慮が見えるときだと感じます。
啓発活動もまた然りで、一般の人から評判が悪い啓発って理解してと言いながら、配慮を求めちゃっているんですよねー。
一般の人はその辺を敏感に感じ取ってしまうから、「自分たちに配慮してくれっていうお願いじゃん」って受け取ってしまうんです。
そして、ドン引きしちゃう。
だから、「知ってほしい」「理解してほしい」という啓発をするんだったら、純粋にそこだけを伝えるようにした方が良いと思いますね。
障害の理解と、配慮の理解は、同じ"理解"でもニュアンスがぜんぜん違います。
「理解してほしい」というハードルは飛び越えられそうな高さに見えますが、「配慮してほしい」となると急にハードルが高く見えるのが一般の人の目なんです。

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