【No.1200】「共同作業ができるできない」は、勝手に決められたチェックリストの一つにすぎない

うちの子ども達がお世話になっていた、なっている保育園は、基本的に自由です。
発達段階上、クラス単位で行動する場面はありますが、ほとんどの時間は遊びたい場所で、遊びたいことをそれぞれの選択によって行っています。
新しく入園した子や兄弟児などがいると、年上の子ども達がお世話をしたり、一緒に遊んであげたり、また年齢も関係なく、遊びたい相手と遊ぶという感じで、異年齢同士でもよく遊んでいます。
当然、一人で遊びたい子はそれでOKで、周りで鬼ごっこしている中で、絵を描いたり、虫を観察したりしてる子もいます。
今回の新刊の中には、この保育園、また保育士さん、そして自由に伸びやかに遊ぶ子ども達の姿から教わり、着想を得た部分もたくさんあります。


大型恐竜が跋扈していた時代、私達のご先祖様は小さなネズミのような生き物でした。
そのご先祖様は、卵で子どもを産んでいましたが、途中からウィルスの力を借り、胎盤を形成し、現在のような出産に変化しました。
それは新しい命を守る戦略だったとも言われています。
そして人類700万年、生まれた赤ちゃんを集団で守りながら、命のバトンをつないできたわけです。
今でも原始的な生活をしている部族、また先進国以外の国では、集団での子育て、保育が行われています。


ヒトも動物の一種ではありますが、他の動物は生殖能力を失う=死・寿命になることがほとんどです。
しかし、ヒトの場合、そうではありません。
ヒトは生殖能力を失っても、生きる意味があるのだと思います。
それはまさに次の世代を育てるために必要だということ。
ヒトの特徴は、その大きな脳です。
単純に幼い命を守るために祖父母の代がいるというよりも、よりよく子どもを育てるために、高齢者がいるのだと思います。


コロナ禍で学校や園が休校の中、「毎日、地域の子ども達と遊んでいました」というご家庭が多くありました。
ある団地では、高校生、中学生が中心になり、そこに住む小学生や幼児さんを集めて一緒に遊ぶというところがありました。
ある地域では、家の扉がオープンになっており、いろんな年代の子ども達がそれぞれの家に行ったり、庭で遊んだりして過ごしていたところがありました。
昨年の段階では、親子の濃密な時間、一対一の関係性の中で大きく育ったと思っていましたが、このように異年齢間での集団が存在している地域の子ども達の姿を見ていますと、こういった多様な刺激が大きな発達に繋がったことも多いのではないかと思いました。
普段は学校等で忙しい子ども達も、休校は却って幅広い刺激を味わえる貴重な時間になったのでしょう。
他にも、仕事が休めず、休校中、やむを得ず祖父母の家に預けたら、ぐんぐん伸びたというお話もありました。


近頃、なんとかの一つ覚えのように「多様性を」などと言わています。
しかし現実は、定型発達の子と発達障害という診断を受けた子の学習の場、遊びの場は明確に区別されています。
これからの時代、国やバックグランドが異なる人同士で地域や社会を共にしていく時代ですし、人種の違いと比べれば、神経発達の違いなんて微々たる違いだとも思います。
ですからギョーカイの言う「多様性を」は、「私たちを受け入れろ」「特別扱いしろ」という本音を隠す建前でかつ綺麗事なのでしょう。
本気で多様性のある社会を目指そうとしたら、「治さない」という方向性はあり得ませんので。


発達障害の人は共同活動が苦手と言われていますし、実際、そのような場合が多くあります。
でも、だからといって集団活動をさせない、すべて個別対応、小集団はよくありません。
何故なら、刺激のバリエーションが乏しくなるからです。
私は、私達がヒトである以上、集団はとても大事だと考えています。
しかし、その集団は、必ずしも集団活動をする、という意味ではありません。
うちの子が通う保育園のように、集団という場を共有しながらも、個人活動して良いと思いますし、それが自然な姿だと思います。
衝立の中で個人活動をしているのと、集団という場を共有しながら個人活動をしているのでは、発達の仕方が違うのと同じです。


言葉が出ない子、知的障害がある子、集団活動ができない子でも、地域や園によっては一般的な保育を受けられる場所もあります。
そういった場合、もちろん、先生や保育士さんは最初の頃、大変なこともありますが、やはり卒園児の成長の大きさが違います。
ある地域では専門的な療育園があり、行列をなしているところがありますが、見事に通ってもほぼ変化がありません。
しかし、同じ地域でその療育園を辞め、一般の幼稚園、保育園に転園すると、ガラッと変わることがあります。
その療育園のスペシャルな先生から、「この子は一生言葉が出ないし、普通の幼稚園は無理」と言われた子も、親御さんの決断によって転園したら言葉が出て、支援学校と言われていたのに、支援級へ通えるくらいまで成長しました。
ちなみに今は、文字の勉強、簡単な計算ができるまで育っています。


専門家の予言は、朝の番組の星座占いくらいの的中率です(笑)
そして一見すると、言葉もないし、集団活動もできない子でも、多様な刺激のある場所で過ごすと、様々な刺激を受け取っていることがわかります。
だいたい発語がないだけで、「支援が必要な子」という判断は化石みたいな支援者です。
発語は発達の結果であり、それがすべてではありません。


ヒトの子育ての形態は、共同保育です。
今のように我が子だけをその親御さんだけで育てているというのは、本来の子育ての姿ではありません。
子が育つためには、様々な大人の手が必要であり、そして脳の発達にはおじいちゃん、おばあちゃんの世代からの刺激と文化の継承、異年齢の子ども同士でじゃれ合い、遊び、場を共有することが必要だと思います。
異年齢間での遊びは、心身を育てるだけではなく、将来の狩りや生活に必要な協働作業を学ぶ準備の側面も大きいはずです。


この2年間で、学校行事、園行事、地域の行事、お祭りがことごとく中止になりました。
現代の子ども達にとっては、すべて異年齢との貴重な共有の場という意味合いがあります。
神経発達と共同作業の土台作りである場を失った子ども達への影響は、これまた数年、数十年後に表れると思います。
マスクをつけろと言うジジババは、子ども達にとって有害以外の何者でもありませんが、いろんな世代の大人やお兄ちゃん、お姉ちゃんは発達を後押ししてくれる存在です。
一緒に活動ができる以前の発達段階は、「場を共有できる」になります。
必ずしも同じ活動を行うのではなく、違う人間同士が場を共有できることが多様性のある社会だと私は考えています。
同じ活動ができるできないは、勝手にギョーカイが決めた診断基準のチェックリスト1項目にすぎませんね。




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