【No.1170】「一人の人間がいる」という視点

遺伝子ワクチンについては、20年前から研究、治験、動物や人への接種が行われていようですが、ご存じの通り、今までは認可されて大々的に接種されることはありませんでした。
SARSやMARSに対しても、遺伝子ワクチンの治験が進んでいたものの、ADE(抗体依存性感染増強)が確認されたため、実用化に至っていません。
ということは、これだけ世界中で多くの人が接種することは初めてなわけです。


既に他のウィルスで遺伝子ワクチンが用いられ、他のワクチン並みに安全性が担保されていれば、「リスクは少ない」「メリットのほうが大きい」と言うことができるでしょう。
しかし、誰も分からない。
特に1年後、5年後、10年後の長期的な影響は人類が体験したことがないので、「分かりません」としか言いようがないのです。
でも、専門家やSNSに現れる医療従事者は、口を揃えて安全性を強調し、副反応は微々たるものだ、と主張しています。


確かに理論上は、安全なのかもしれません。
今、接種後に表れている副反応の割合を見ても特異的な数字ではないかもしれない。
接種後に亡くなった人は、ワクチンとの因果関係がはっきりしていないのかもしれない。
しかし忘れてはいけないのは、非常時ゆえに認可されたものであり、今まさに「治験中」だということです。
ある程度、治験が終わり、長期的な経過が確かめられたうえで、副反応が〇%、死亡者が〇人というのならわかりますが、今は治験の最中ですので、一人ひとりの状態や予後を丁寧に確認する必要があるのではないでしょうか。
その一人ひとりから得られた情報を基に、ワクチンの有効性や安全性を主張するのが筋だと思うのです。


「治験中」ではありませんが、まだ発達障害の分野も発展途上であり、わからないことだらけの分野だと言えます。
一昔前までは、「脳の機能障害」とし、「生まれつきで治らないもの」とされ、できることは対処療法か、服薬、または周囲の理解や支援でした。
しかし、その時代は終わり、神経発達症となり、その神経にアプローチすることで改善や治癒を目指す方向へと進みだしたのです。


未だに「自閉症だから構造化」などのマニュアル対応がされています。
またIQの数値が高くなったり、支援級から普通級に行ったり、手帳を返上したりすると、「それはたまたま」「もともと軽かった」などと、診断が外れ、治らないと言われていた特性が治ることを認めようとしない人たちがいます。


彼らからすれば、たった数パーセントの稀な事例、誤差のレベルなのかもしれません。
でも、「生まれつきで脳の機能障害で治ることがない」というのは事実ではなく、仮説だったのです。
その仮説が崩れ、今はまた神経発達症という概念で捉え直し、当事者の人たちがよりよく変わっていけるためのアプローチを改めて探っていく時期だと言えます。
診断名が外れるくらい発達・成長するのは、切り捨てるべき数値ではなく、活かすべき、学ぶべき一人の人間の姿なのです。


ギョーカイの支援者たちは、診断名が外れたり、支援が必要なくなる人のことを異常値扱いし、その人個人と向き合うことをしてきませんでした。
ですから、誰が相談にこようがお構いなし。
個ではなく、診断名で支援や助言をしているのです。
まるで個人の差、人種の差、そして長期的なリスクを見ないワクチン推奨派の医療従事者のようです。
とにかくできるだけ多くの人が接種し、それで亡くなる人は「少ない確率に当たっただけ」「医学の進歩にはつきもの」と。
そこに「一人の人間がいる」という当たり前の視点が無視されている。


「42万人死ぬ」といった人は、「人々が何も対策をしなかったら」という前提で数値をはじきました。
まさに「一人の人間がいる」という視点が抜け落ちています。
数字しか見ていないから、計算を間違うし、それによる人々の反応を想像できていなかったのです。
感染症の専門家にとって、ウィルスをゼロにするというのは、彼らの目標であり、悲願なのかもしれません。
でも、そういった数だけを見ている人間も、社会の中には「一人の人間がいる」ということが見えていないのでしょう。
医師会は金という数字を見、与党は、首長は世論調査の数値だけを見ている。
同じように長い間、ギョーカイは診断基準に当てはまるかどうか、どれだけ長く支援を利用してくれるか、という数値しか見てこなかった。
だから、よくなった人、自立できた人、治った人は、異常値として切り捨ててきたのだと思います。


この一年間、「ウィルスに勝つ」「ワクチンで克服できる」「ゼロコロナ」など、大脳皮質でしか物事を考えられない人達の姿を目にしてきました。
大脳皮質は新しい脳であり、デジタルでしか捉えられない部位です。
日々の陽性者数に一喜一憂し、富岳の計算で驚き、あれだけ未知のウィルスだからと怖がっていたのにもかかわらず、人類初の未知のワクチンを我先にと接種しようとしている。
人間の劣化は、大脳皮質を肥大化させ過ぎたことかもしれません。
伝統脳を使い切れない人は、物事の本質を捉えることができず、表面でしか考えることができないのでしょう。


神経発達症の子ども達は、大脳皮質の問題ではなく、伝統脳の部分の発達のヌケと遅れの問題だと考えられます。
ですから、彼らの発達を後押しする大人たちも、伝統脳を使いこなせるような準備をしておく必要があると思います。
数値や文字、デジタルな情報では、目の前の我が子のことを理解することはできません。
できたように思ったとしても、それは自分が記憶している情報と我が子の共通点を照合しているだけです。
「ああ、うちの子にも聴覚過敏がある」
で、その先が見えてこないのは、そういうことです。
聴覚過敏にはイヤーマフ、環境調整というのは、ボタンを押したら出てくる自動販売機と一緒。
「なぜ?どうやって育てたらいいの?」には、デジタル化できない感覚を発動するしかありません。


そこに「一人の人間がいる」というのがわかるのは、大脳皮質ではなく、伝統脳の仕事。
人間が見えない人には、子育ても、発達援助もできないでしょう。
ギョーカイの言う支援とは、数値の上がり下がりであり、支援対象か否かの世界。
発達障害があるかどうかではなく、大事なのは目の前がより良く発達成長していける視点ですね。
それは動物としての本能と感覚、哺乳類としての愛着が能力を発揮する部分です。




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