発達課題を飛ばすのは個性じゃない

ハイハイをすっ飛ばして足ったり、言葉の発達が遅れたりするのを、「それがその子の個性だから」と言われました、というお話はよく耳にします。
ある親御さんは、「初めての子だったので、発達が遅いのも、この子の個性だと思っていました。マイペースで、のんびり屋さんみたいな」とおっしゃっていました。


幼い子ども達と関わる人の中には、その場しのぎで、あまり深く考えることなく、いや、お母さんを傷つけないことがあたかも役割であるという認識からか、「個性」という言葉を簡単に使う人がいます。
私はよくわからないのですが、どうも「個性的」というのをポジティブな意味で使っている人達がいます。
個性的なファッションなら、人によっては褒め言葉になるでしょうが、個性的な発達は褒め言葉にはならないでしょう。
でも、過去にビックリしたことがあって、「言葉が遅いのも、うちの子の個性です」と言い放たれたことがありましたね。


言葉が遅いのは、個性でもなんでもなく、発達が遅れているということ。
「これがこの子の個性だ」と言って、第三者が慰めるのも、親御さんが心のバランスを取るのも自由です。
でも、視点を切り替え、子どもの視点に立てば、「ポジティブな感じで個性と言ってくれるな」「個性で止まってしまうんじゃなくて、どうにかしてよ」と言いたいはずです。


言葉が遅れていれば、必然的に知能検査の結果は、「知的障害あり」となります。
その結果を見れば、特別支援の方向へ流れていくのが、今の社会であり、現実。
もちろん、本人にとっても、そのまま状態が変わらなければ、学ぶこと自体難しくなりますし、選択肢だって狭まってしまいます。
ですから、「言葉の遅れ」は、「個性ですね」と一言で終わらせられるような問題ではありません。


定型発達の子どもで言えば、2歳前後で言葉が出てきます。
ということは、2歳半を過ぎても、3歳になっても、言葉の発達が遅いから、親も、仕事で携わる人も「おやっ」となる。
ですから、その時点で「個性」という言葉で先送りにするんじゃなくて、今までを振り返ることが大事になります。
誕生後から今までの間で、何か気になるなるところはなかっただろうか?
定型の子どもが辿る発達過程で抜かしたり、足りなかったり、できなかったことはなかっただろうか?


2歳半や3歳くらいで振り返れば、明確に覚えていることも多いはずです。
そして何よりも、そこから育て直し、やり直しを始めれば、遅れを取り戻すのも早い。
今まさに、これから神経を作り、神経同士の結びついていこうとしている真っ最中であり、人生の中で神経発達が一番盛んな時期なのですから。
その時期の子ども達、親御さん達と関わるとき、それが個性なんかじゃなくて、「今の時点で発達のやり残しが生まれていますよ」と伝えることこそ、真摯に向き合うことだと私は考えています。
ちゃんと問題だと認識することが、治るための一歩です。


「どこからが個性で、どこからが障害か、特性か、わからない」と言われる親御さんは少なくありません。
そして実際に尋ねられることもあります。
しかし、どこからが個性で、どこからが障害か、なんてわかりません。
ただ一つ言えることは、治せる部分、育て直せる部分、発達を促せる部分を残した状態で、「個性だ」「障害だ」とは言えないということ。
治せるところは治し、育て直せる部分は直し、未発達や遅れている部分はすべて発達を促した。
それでも残る部分が、その子の個性だと、私は考えています。


だいたい、まだ育める部分があるのに、「これがこの子の個性です」なんていうのは、子どもにとって失礼なこと。
「個性」「個性」という人に限って、その子の個性、いや、その子自身を見ていないわけです。
個性なんて、本人以外の他人がやすやすと言うものでも、言えるものでもないでしょう。
結局、「個性」という言葉を使って、思考停止しているだけです。
本当に、その子の個性を考えるのなら、本人の生きづらさをどうにかしようとするもの。
生きづらさの中にいる子は、生きることで精一杯。
個性など発揮できる状態であるわけがないのですから。


言葉が遅れているのなら、その時点から過去を振り返る。
どんな国や気候、生活スタイルに関わらず、人類すべての赤ちゃん、子どもが教わることなく辿る発達過程です。
その過程の中に、ヌケや遅れがあったのなら、そこはそのままにしておけないでしょう。
ヌケや遅れをそのままにしつつ、「これが個性だ」「我が子はマイペースちゃん」と言っている日本人が何と多いことか。


発達過程のヌケや遅れはすべて育て直した、やりなおした。
それでも残るのなら、そこで初めて「個性」という言葉が連想されます。
「個性」と決め付けるのではなく、スルーするのではなく、「なんか、やり残しがあったかも」
そう思えるかどうか。
発達に課題を持つ子ども達は、「障害児」という別の個体じゃないのです。
だったら、辿ってきた発達の道に違いがあっただけ。
違いがあったのなら、そこをやりなおせば良いというシンプルなお話です。

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