「ずっと腫れ物に触るような感じで、息子と接してきました」
ある親御さんが言った言葉です。
目には涙を浮かべていましたね。
愛おしくてたまらなかった我が子。
好きなときに抱きしめ、いっぱい遊んでいたのに、いつしか気を遣って接する存在になってしまっていた。
きっかけは診断名がついたこと。
診断名がついて、「障害」という言葉を聞いて、絶望し、嘆き悲しんだ。
それでも、変わらず愛し続けようとした。
大切な我が子だからこそ、一生懸命勉強し、支援者を頼り、良いと言われたものはすべてやろうとした。
ここから徐々に歯車があらぬ方向へと進み始める。
「叱らないで、褒めて育てましょう」
「間違った行動をしたら、反応するんじゃなくて無視ですよ、お母さん」
「本人は悪くないんです。周囲の対応の仕方が悪いんです」
「家庭でもちゃんと視覚支援していますか?」
「落ち着かないのは、支援が合っていなかったからでしょう」
専門家と呼ばれる人達の言葉を素直に聞いているうちに、いつしか身動きができなくなってきた。
そして、接するのが、だんだん怖くなってきた。
もし、自分の接し方が悪くて、この子に悪い影響が出てしまったら、と。
いつしか一緒の空間にいるだけで、緊張し、辛くなってしまうようになっていた…。
親御さんと話をしていると、息子さんの話なのに、どうも他人の子の話をしているように感じたんですね。
親子の距離が遠いような。
だから、言ったんです。
「息子さんに遠慮していませんか?」
「息子さんと接するのってしんどいですか?」
って。
そうしたら、冒頭の「ずっと腫れ物に触るような感じで、息子と接してきました」という言葉があったんです。
我が子なのに、遠慮しながら、気を遣いながら生活してきたって、本当にしんどかったと思うんですよ。
でも、私は言いましたね。
「息子さんは障害を持っていたとしても、お腹を痛めて生んだ息子さんには変わりありませんね」
「息子さんは腫れ物ではありませんし、それを望んではいませんね。息子さんを腫れ物のような存在にしていたのは、お母さんの方だと思いますよ」
こんな話をしました。
きつい話だったかもしれませんが、ここで変わらなければ、親子共々どんどん悪い状況になってしまうと思い、直言したのでした。
お母さんは、こういった言葉をどこかで待っていたようでした。
「普通の子どものように接していいんですね」
と言ったあと、涙と今までの想いを一気に吐き出していました。
ずっとおかしいと思っていたこと。
でも、専門家と呼ばれる人達からは、親子の交流よりも、支援を求められてきたこと。
そして、いつしか息子といるだけで、辛くなってしまったこと。
だから、極力、接しないように、いてもいないような生活になっていることを。
今はだいぶ大きくなってしまったけれど、小さかった頃のような親子の関係に近づけるように頑張っているそうです。
息子さんの方も、ぜんぜん会話もなかったのに、近頃ではテレビの話などをするようになったそうです。
表情の変化があまりなかった息子さんだったのですが、前よりも柔和な顔立ちに変わったような気がします。
我が子を腫れ物のように感じてしまうって悲しいことだと思います。
療育ってかっこよく言われるけど、中身は「どう子どもを育てていくか」
つまり、子育てなんですね。
障害があったとしても、子育ての基本は変わらないはずです。
親にとっても、子にとっても、楽しい子育てになるように。
この基本を大切にし、これからも私はお手伝いしていきたいですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿