【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子
コロナ前までは「学校くらい通えなきゃダメだろ」と思っていた。
特に小中高くらいまでは、とってもシンプルなシステムだし、別に授業を聞いていようが聞かまいがどうってことはないし、テストだって0点取っても命を取られるわけじゃない。
乱暴な言い方をすれば、ただ学校に行って帰ってくれば良いだけの活動なので、ここで躓くのなら成果や責任を求められる社会ではやっていけないよなって。
だから、相談があっても、「学校に行けるレベル」を一つの目標、基準にしていた。
だけれども、コロナ騒動を経て、公教育のダメさ加減をまざまざと見せつけられてしまった。
管理職と話をしても、「道教委が」「国が」という。
挙句の果てには、「外すように言っても、今の子は外さないんですよ」とブチ切れ発言。
だって3年間、ずっと学校にいる間中、下手したら登下校、放課後公園で遊んでいても、マスクをつけてなければ、「マスクつけなさい!」と注意してきたのですよ、教師が。
それをあたかも「子どもが」「主体的に」「外さない」ときたもんだから、こんな学校、教育、教師に自分の子は任せられないと思いましたよ。
多様性と言いながら、個人の事情や意見に耳を傾けない。
「自ら考え、行動できる人間を」と言っている管理職が上からの指示待ちで思考停止。
戦後、GHQが教育の世界に多くの左系の人間を入れたとは聞いていたけれども、まさに学校自体が共産主義体制そのものといえるでしょう。
今までを振り返っても、本気で子ども達のために動いている先生は僻地に飛ばされていましたね。
教員も個性を奪われる世界ですから、学校に通っていては個性的な子が育つわけないのです。
うちの子ども達を見ても、「学校教育は危険だ」と思うくらいですから、発達障害の子、とくに体軸が育っていない子と学校教育の相性は抜群に悪い。
より具体的に言えば、ちゃんと椅子に座れない子は、先生の話を真に受けてしまう。
発達相談で伺っても、軸がない子ほど、かたくなにマスクをし続けようとしている。
一見すると律儀なように見えるが、軸がない分、他人軸で自身の行動が規定されてしまっている。
まあ、最悪マスクくらいなら良いが、社会に出て悪い奴にコントロールされてしまう危険性があるってことにもなります。
幼児期の体軸は、自由自在に動き回れる身体を作る意味を持つ。
一方で小学生の体軸は、自分という人間の軸を作るという意味を持つ。
だから、この12歳までの間に、いろんな人間と関わることを通して、世の中にはいろんな軸があることを体感することが大事になってきます。
自分の軸を育てる時期だからこそ、関わる人間が少ない子ほど、教師の存在が大きくなってしまう。
それにプラスして体軸が育っていない子は、言葉のみの力で自らを決めてしまう。
人間の「軸を育てる」には、身体的な軸と精神的な軸の二つの側面があるといえます。
もちろん、土台は身体的な軸であり、その上に精神的な軸ができてくるイメージです。
身体的な軸ができていない子への指導、SSTなどは、一歩間違えば洗脳のようになってしまいます。
なので指導の仕方、言葉のチョイスは慎重になる必要があると感じます。
またこの段階の子に「選んで」は難しい課題になる場合が多い。
「選んで」と言っても選べない子を目の前にして、業を煮やした大人が「じゃあ、こうすれば」と言ってしまう負のループは、あちこちで見られます。
そして体軸が育っていな子の言う「ぼく、こうするよ」は、大人に対する忖度である可能性も、私たちは頭に入れておかなければならないでしょう。
自閉症脳は学校ルールから抜け出せず、社会で苦労する話はよく知られていました。
そこにプラスして体軸が育っていない子にとっても、先生個人の発言に左右されてしまう危険性があると思います。
いじめられたり、からかわれたりするのも、体軸が育っていない子が多いような印象です。
体軸が育つ前と後で、子どもの受け取り方が大きく変わりますので、日々接している大人はどのような言葉を使い、どのような環境を用意するのか、考えていく必要があると思っています。
コロナ騒動を経て、公教育以外の教育、成長する場を選択するのも良いと思うようになりました。
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