【No.1061】シンプルな発達相談、援助を目指して
子ども達は、大人から見れば「無意味」「無駄」と思えるような行動をするものです。
もしかしたら「名の無い遊び」というのが、それにあたるかもしれません。
大人というのは無意識のうちに行動の意味を問い、その意義を求めます。
何故なら目的を持ってから行動するのが大人であり、無駄なものを排除できるようになることが大人になるということですから。
子どもが何故、その行動をするのかといえば、「やりたいからやるんだ」になると思います。
子ども自身、その活動の目的、意味を見定めてから行動するわけではなく、「ただなんとなく」「気が付いたらやっていた」というのが自然なことだといえます。
そんな姿を見るたびに、子どもが内側から突き動かされているように私は感じます。
そうです、それこそが各々が持つ発達する力。
子どもが内側から突き動かされて行動しているとき、つまり一見すると無駄で意味や目的のない行動をしているときが発達に一番近づいているときだと考えることができます。
発達相談において「この行動は止めさせたほうが良いですか?」と訊かれる行動のほとんどは、その子の発達にとって必要なものです。
自閉症や発達障害というメガネを掛けてみると奇妙で心配になる行動も、今まさにその子自身で育てている最中なのです。
ですから、その子が主体的に繰り返す行動、没頭する行動は止めるのではなく、内側から突き動かす力がなくなるまで発散させたほうが良いと思います。
どんな専門家であったとしても、その子の内側に入ることはできず、「たぶん、これが良いだろう」ということしかいえません。
実際、専門家の言う通りにして子に良い影響が見られたとしても、それがベストであるか、それが本人が今望んでいるものなのかはわからないのです。
大人はどうしても目的が先にあり、効率的に物事を行おうとします。
子どもに良い変化があると、「もっともっと」になるし、「あれもこれも」になる。
そうなると、その子の発達に余白がなくなっていきます。
ある幼児さんのご家庭は毎日、日課のごとく、あれもこれもをやっていました。
実際、その様子を見させてもらうと、親も子も苦しそうにやっているのがわかりました。
そして何よりも、やったところは伸びるけれども、それ以外が伸びていないのがわかったのです。
つまり、親に合わせて発達していた。
本来、発達とは本人が主体的に行うものなのに。
内側から突き動かされて動いていると、大人が意図していないところから子どもは発達するものです。
発達をコントロールすると、部分的な発達になる。
「部分的な発達か、全体的な発達か」は見るとわかるものです。
またある小学生の子は、「いろんなことをやらされるのが嫌だった」と振り返っていました。
当時は表現できなかったけれども、ついていくので必死で余裕がなかった、苦しかったと言います。
確かに、この子はいろんな発達課題をクリアし現在に至りますが、残念ながら愛着の部分で課題が残ったままです。
やらされている限り、やるとやらすの間柄である限り、その関係性に安心感は育たないのです。
ここ数年、人数は少ないですが、発達の課題はクリアしたけれども、愛着形成に課題があるケースが気になるようになってきたところです。
大人は知識を集め、情報を集めるのは大事なことです(そして上手に情報を捨てられること)。
しかしそれは大人側に必要なことであって、子どもが必要としていることではありません。
子が必要としているのは、誰にも邪魔されず、存分に自分の発達課題をやりきれる環境です。
現在、発達障害が治り切らず大人になる子が多いのは、大人の視点で効率的にあれもこれもをし過ぎているからだといえます。
大人が子どもの余白を奪っていると言われても仕方がないのです。
子どもが無駄なことをしていると、「他のことを」とつい言ってしまいがちです。
無駄、遠回り、寄り道、名も無い遊び、退行こそが、その子の発達そのものなのに。
今回の新型コロナの影響で、子ども達に余白が戻ってきました。
いろんな方から今どのように過ごしているかといった連絡がきますが、戻ってきた余白を子ども達が伸びやかに使っている様子が伝わってきます。
中には、急に幼い子がやるような行動が見られて心配される親御さんもいますが、「ああ、本人の中ではそこがやりきれていなかったんでしょうね」「そこが違和感として残っていたんでしょうね」というお話をしています。
私を含め大人が「今、これが大事」と考えていたところが、実際は違っていたというのがよくわかります。
原理原則の通りにいかないことが、その子が自分で育てたいところを育てている証拠だといえます。
休校、休園の間で、部分的な発達をしていた子に全体的な発達が見られたということが多くあり、私は嬉しく思っています。
現在、私は過去の本を読み返したり、新たな分野の勉強をしたりしています。
そんな中で思うのが、「今は必要のないものを減らしていく時間である」ということです。
子ども時代、多くの課題を持っていましたが、それがクリアされ、今自立して生活している若者たちがいます。
その若者の親御さんに目を向けると、本当におっしゃることがシンプルです。
「食べることが何よりも大事だから、偏食だけ直す」
「とにかくどんな仕事でもいいから、自分で稼げる子に育てる」
「ひと様に迷惑をかけることだけなくしていく」
そんなシンプルな言葉で子育てをされていました。
そういった姿からわかるのは、譲れないポイントだけ押さえておいて、あとは本人に任せる、委ねる姿勢です。
自立して生活している若者たちを見ると、結構、特別なことはされていなかったし、あれもこれもじゃなかったと思います。
私が思うに、そういった若者の親御さんは切り捨てるのが上手。
必要な部分は頑として譲らず、それ以外は子に任せていた親御さんが多いと感じます。
私も一度立ち止まり、情報や知識を整理していると、本当に必要なものは限られているのがわかりました。
発達とは、とてもシンプルな事象であり、その発達の大部分は子が行い、子に委ねられるもの。
援助を最小限にし、子どもさんに任せる部分をできるだけ多くすることが、私が求めていく仕事のあり方ではないかと考えるようになっています。
「何を育てたいか」「どこから育てたいか」は、その子しかわからないものです。
今まで「発達課題のできるだけ根っこのほうを掴むのが良いことだ」と考えていましたが、本当にそうだったのか、その子の発達する力を私が信じ切れていたのか、改めて考えています。
私自身が発達援助に溺れていたような気すらしてきます。
学校に行かなくても、幼稚園や保育園、療育機関に通わなくても、発達している子ども達がいる。
何か特別なことをしたわけではなく、ただ子どもに余白が戻っただけなのに。
もしかしたら、その余白こそが内なる発達する力を発揮する条件なのかもしれません。
「子どもを信じ、委ねられる部分が多くなるほど、発達相談、援助はシンプルになる」
私はそこを目指して歩んでいきたいです。
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