臆病者のSST
どうしてSST(ソーシャルスキルトレーニング)がほとんど役に立たないのでしょうか、実際の場面になると使えないのでしょうか。
そこには般化しづらい特性があるでしょうし、そもそも知識として教えようとすること自体が間違っているということもあるでしょう。
でも、それよりも根本的な問題として、そもそも伝えようとしている方向性が間違っている場合が多いのです。
取り上げる内容は様々ですが、結局、みんな同じことを言っています。
それは一言で言えば、「どうしたら嫌われないか」です。
支援者の多くは、嫌われることを恐れます。
それは支援者自身が持つ愛着面の課題からであり、嫌われないこと=仕事につながると思っているからです。
嫌われることを恐れる人間というのは、嫌われないことが生きる術として染みついています。
だから、何の疑問を持つこともなく、「嫌われないことが社会性だよ」と教えようとする。
特に困難を持った子どもに対しては、寒々しさを持って生きていた子ども時代の自分自身の姿を重ねてしまいます。
子どもと関わる支援者の中に、必死に嫌われない生き方を教えようとし、必死に自分だけはこの子を嫌いになるまいとする人がいるのをよく見かけます。
ギョーカイに属している支援者というのは、自分一人で支援するよりも、連携することを求められます。
自立させる支援者よりも、上手にパスできる支援者が良いこととされているのです。
サッカーで言うと、得点を決めるストライカーは必要とされず、とにかく仲間にパスを回す選手が良い選手になります。
何故なら、ゴールを決めれば1で終わりますが、パスを回せば、その分、数が増えていくから。
支援者が「連携連携」というのは、「こっちにも支援する回数をくれ」と言っているだけ。
一人の利用者でも、何度も通わせれば、いろんなところに誘導すれば、それだけ利用回数が増えていき、結果、お金につながります。
パスを回す方が効率的に利用回数が増やせるから、いつまでもパスばっかりしていて、「いろんな専門機関と連携して」なんて言いながら、何一つゴールが決められない。
ギョーカイ内で自立させちゃう支援者が嫌われて、反対に「連携連携」「支援支援」と言っているだけの支援者が重宝されるのは、こういったお仕事の仕組みがあるわけで、プレーヤーと外から見ている一般の人達とのギャップが生まれるのは、そもそもルールが違うのです。
だから、決して仲良くもなく、裏ではお互い悪口を言いながらも、一緒に研修し、連携し、作り笑顔で撮った集合写真をSNSにあげる。
私なんかは、全然思想も、考え方も、支援方法も違う支援者同士が、よくもまあ、一緒に仕事をするな、と思いますね。
こんなんで、本人のための良い連携ができるのかな、とも思います。
そもそも妥協点が見つからないでしょって。
「連携」と言うわりに仲が悪く、「連携」と言うわりに連携した支援ができないのは、ギョーカイあるあるです。
「嫌われないこと」というのは、ソーシャルスキルでもなんでもなく、ただ単に臆病なだけ。
嫌われないことなんて、社会の中で何の役にも立ちません。
しかも、嫌われないことばかり考えていたら、仕事はできないし、社会も、学校も、職場も、ただただ怖い場所と錯覚するだけです。
それこそ、特別支援の世界でよく言われる多様性があるのが社会なのですから、自分のことを好きな人間もいれば、嫌いな人間もいます。
もし教えるとしたら、嫌われないことではなく、嫌われながらも生きることを教えた方がよっぽど意味があると思います。
嫌いな人間と距離を置く方法、蹴散らす方法、嫌われて凹んでいる暇があるのなら勉強しな、仕事しな、というSSTなら良いですね。
まあ、流行りのSSTがほとんど意味をなしていないのは、社会性を知識、情報の量という薄っぺらい解釈しかできていないことと、そもそも教える側の根底に誤学習が流れているということです。
例えば、授業中、離席して歩きまわる子に対し、多くの支援者は「他人からどう見られるか」という視点ばかりで教えようとします。
確かに、他人の視点を想像しにくい子どもさんには、こういった情報を確認することも大事です。
でも、それよりも、離席しないで授業を受け続けられる土台作り、他人の気持ちを察せられる土台作りの方が大事だと思います。
逆に言えば、そういった土台ができていない子に、いくら他人の視点、ルール、暗黙の了解を知識として教えても、実際の行動にはつながりません。
そればかりか、支援者から「嫌われないように」「嫌われないように」と言い続けられてきたら、そんなメッセージを送り続けられたら、その子まで他人が、学校が、社会が怖いものだと認識するようになってしまいます。
他人を、学校を、社会を、怖がるのは支援者だけで十分です。
自立のための支援ができないばかりではなく、自立の足を引っ張るのは迷惑千万。
SSTに限らず、怖がる大人のそばには、怖がる子どもがいるのは、こういった価値観の伝達が行われているからだと感じます。
嫌われないように振る舞える人のことを「社会性のある人」「ソーシャルスキルが高い人」と思ってしまうのは、愛着面に課題がある人か、誤学習している人だといえますね。
そこには般化しづらい特性があるでしょうし、そもそも知識として教えようとすること自体が間違っているということもあるでしょう。
でも、それよりも根本的な問題として、そもそも伝えようとしている方向性が間違っている場合が多いのです。
取り上げる内容は様々ですが、結局、みんな同じことを言っています。
それは一言で言えば、「どうしたら嫌われないか」です。
支援者の多くは、嫌われることを恐れます。
それは支援者自身が持つ愛着面の課題からであり、嫌われないこと=仕事につながると思っているからです。
嫌われることを恐れる人間というのは、嫌われないことが生きる術として染みついています。
だから、何の疑問を持つこともなく、「嫌われないことが社会性だよ」と教えようとする。
特に困難を持った子どもに対しては、寒々しさを持って生きていた子ども時代の自分自身の姿を重ねてしまいます。
子どもと関わる支援者の中に、必死に嫌われない生き方を教えようとし、必死に自分だけはこの子を嫌いになるまいとする人がいるのをよく見かけます。
ギョーカイに属している支援者というのは、自分一人で支援するよりも、連携することを求められます。
自立させる支援者よりも、上手にパスできる支援者が良いこととされているのです。
サッカーで言うと、得点を決めるストライカーは必要とされず、とにかく仲間にパスを回す選手が良い選手になります。
何故なら、ゴールを決めれば1で終わりますが、パスを回せば、その分、数が増えていくから。
支援者が「連携連携」というのは、「こっちにも支援する回数をくれ」と言っているだけ。
一人の利用者でも、何度も通わせれば、いろんなところに誘導すれば、それだけ利用回数が増えていき、結果、お金につながります。
パスを回す方が効率的に利用回数が増やせるから、いつまでもパスばっかりしていて、「いろんな専門機関と連携して」なんて言いながら、何一つゴールが決められない。
ギョーカイ内で自立させちゃう支援者が嫌われて、反対に「連携連携」「支援支援」と言っているだけの支援者が重宝されるのは、こういったお仕事の仕組みがあるわけで、プレーヤーと外から見ている一般の人達とのギャップが生まれるのは、そもそもルールが違うのです。
だから、決して仲良くもなく、裏ではお互い悪口を言いながらも、一緒に研修し、連携し、作り笑顔で撮った集合写真をSNSにあげる。
私なんかは、全然思想も、考え方も、支援方法も違う支援者同士が、よくもまあ、一緒に仕事をするな、と思いますね。
こんなんで、本人のための良い連携ができるのかな、とも思います。
そもそも妥協点が見つからないでしょって。
「連携」と言うわりに仲が悪く、「連携」と言うわりに連携した支援ができないのは、ギョーカイあるあるです。
「嫌われないこと」というのは、ソーシャルスキルでもなんでもなく、ただ単に臆病なだけ。
嫌われないことなんて、社会の中で何の役にも立ちません。
しかも、嫌われないことばかり考えていたら、仕事はできないし、社会も、学校も、職場も、ただただ怖い場所と錯覚するだけです。
それこそ、特別支援の世界でよく言われる多様性があるのが社会なのですから、自分のことを好きな人間もいれば、嫌いな人間もいます。
もし教えるとしたら、嫌われないことではなく、嫌われながらも生きることを教えた方がよっぽど意味があると思います。
嫌いな人間と距離を置く方法、蹴散らす方法、嫌われて凹んでいる暇があるのなら勉強しな、仕事しな、というSSTなら良いですね。
まあ、流行りのSSTがほとんど意味をなしていないのは、社会性を知識、情報の量という薄っぺらい解釈しかできていないことと、そもそも教える側の根底に誤学習が流れているということです。
例えば、授業中、離席して歩きまわる子に対し、多くの支援者は「他人からどう見られるか」という視点ばかりで教えようとします。
確かに、他人の視点を想像しにくい子どもさんには、こういった情報を確認することも大事です。
でも、それよりも、離席しないで授業を受け続けられる土台作り、他人の気持ちを察せられる土台作りの方が大事だと思います。
逆に言えば、そういった土台ができていない子に、いくら他人の視点、ルール、暗黙の了解を知識として教えても、実際の行動にはつながりません。
そればかりか、支援者から「嫌われないように」「嫌われないように」と言い続けられてきたら、そんなメッセージを送り続けられたら、その子まで他人が、学校が、社会が怖いものだと認識するようになってしまいます。
他人を、学校を、社会を、怖がるのは支援者だけで十分です。
自立のための支援ができないばかりではなく、自立の足を引っ張るのは迷惑千万。
SSTに限らず、怖がる大人のそばには、怖がる子どもがいるのは、こういった価値観の伝達が行われているからだと感じます。
嫌われないように振る舞える人のことを「社会性のある人」「ソーシャルスキルが高い人」と思ってしまうのは、愛着面に課題がある人か、誤学習している人だといえますね。
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