受容すること、理解すること
「受容する」ということは、期待値を下げることを言うのだろうか。
「理解する」ということは、現状をそのまま受け止めることを言うのだろうか。
『受容』という言葉も、『理解』という言葉も、本来、より良い関係性を築いていくために必要な言葉。
しかし、その言葉が、親御さんの心の重りとなり、親と子の距離を遠ざけているように感じるのです。
私も子育て世代の一人であり、同世代の方達からの相談がきます。
中には、私よりも年齢の若い親御さんと関わる場面も出てくるようになりました。
当然、子育ては喜びや楽しみだけではありません。
でも、同世代、また自分より年下の親御さん達があまりにも苦しそうに日々子どもさんと接しているのを見聞きすると、心苦しく思うのです。
親御さん達の口からは、こんな言葉が出てきます。
「私がまだ受容できていないから…」
「私がちゃんと理解してあげられていないから…」
しかし、親御さん達の姿からは、障害を持っているという事実を受け入れ、我が子のことをより良く理解しよう、理解したい、という想いが感じ取れます。
じゃあ、親御さん達の言う『受容』とは、『理解』とは…。
親御さん達の『受容』『理解』という言葉を辿っていくと、支援者の言葉とぶつかります。
誰しもが抱くであろう自然な親心を否定する言葉です。
我が子の未来の可能性を知りたい、いや、信じたい親御さんに対して、すでに未来は決まっているかのごとく、「この子は、生涯支援を受けていく」「特別支援の世界で生きる子だ」と言う。
この子に合った育て方を知りたいのに、返ってくるのは親の振る舞い方と、世の中にはどんな支援があるかということばかり。
我が子の可能性を信じたい、より良く育つ方法を知りたい親御さん達は、支援者から返ってくる言葉によって、その想いに蓋をするようになります。
最初はどの親御さんも持っていた自然な想いなのに、段々1人消え、2人消え、と減っていく。
本当は蓋をしたくないと思っている親御さんからは苦しさがにじみ出ています。
そして、蓋を閉めるとき、親御さんは自分を納得させるためにこう言うのです。
「悩む私が間違っている」
「私が想いを捨てられないのは、受容や理解ができていないからだ」と。
特別支援の世界では頻繁に使われている『受容』や『理解』という言葉。
でも、この言葉によって苦しんでいる親御さんは少なくないと感じます。
何故なら、特別支援の世界で用いられる意味は、一般的な意味とは持ちいられ方が違うから。
全体ではなく、部分。
自然ではなく、人工的。
つまり、一人の人間としてではなく、障害にのみスポットライトが当てられた受容と理解なのです。
一般的な子育て、言うならば、一人の人間として接し、子育てをしようとしている親御さんに対して、ときに「受容できていない親」「理解ができていない親」なんていう言葉が飛んでくることがあります。
一方で、まるで親子ではなく、支援者と対象児のような子育てをされている親御さんが持ち上げられたりすることもあります。
それってただ単に抜け駆けさせないための集まりじゃないですか?というナントカ会や、同じ親同士なのに多様性は認めず、足を引っ張るのが目的ですか?というナントカメンターとかいうのもある。
そういった言葉と先輩たちの姿に、徐々に『受容』と『理解』というのが重みを持つようになり、重苦しさをまとうようになっていく。
『受容』と『理解』という言葉を否定することは難しいです。
本来、前向きな言葉であり、より良い関係性を築くのに必要な言葉だから。
でも、特別支援の世界では誘導する言葉になってしまっている。
その誘導とは、特別支援の世界で生きることへの誘導です。
「考え方を変えたら、ラクになった」という親御さんがいます。
でも、話に耳を傾けると、期待値を下げているだけ、現状を良しとしただけ、ということもあります。
最初は、自立する姿を望んでいたはずなのに、支援を受けながら生きていってくれればいい、無理して働かなくてもいい…と変わっていく。
自立を目標にすると辛くなるから、支援を受けながら生きていければ、と思うようにする。
「発達障害の人は、家事のできるひきこもりを目指す」と言うのも、周りの大人たちがラクになるためのもの。
特別支援の世界で用いられる『受容』と『理解』は、「普通の子育ては止めましょう」「一般的な願いを持つのは止めましょう」と言っている場合があります。
また支援を提供する私達を、私達のやること、言うことを「受容して」「理解して」と言っている場合も。
そしてその言葉が誘導する先は、「支援を受けよう」なのです。
子どもが生まれたから親になるのではなく、子育てをしていくうちに親になるのだと私は思います。
そんなまだ親になる途中である親御さん、右も左もわからない親御さんに対し、寄って集って普通の子育てではなく、障害児としての子育てをするように、と言う。
だから、親御さんは内側にある自然な親心、障害を持っていても大事な我が子であり、一人の人間であるという想い、より良く育ち、自立してほしいという自然な願いを、「こんなものを持っていてはダメだ」と否定するようになってしまう。
親御さん達を苦しめているのは、その子の持つ困難さだけではなく、自然な親心を否定する言葉達であり、否定し続けることを求められることなのだと思います。
だからこそ、私は相談にいらした親御さんに対し、自然な感情を否定する必要はありませんと伝えています。
むしろ、親心があるからこそ、他の誰よりも真剣で力強く、その子の発達と成長の後押しができるのだと思います。
「受容する」「理解する」というのは、子どもと真剣に向き合い、しっかり過去と現在と未来を見る、ということだと思います。
決して自然な感情を否定することではなく、その子の可能性を否定することではありません。
一般の社会では、子どもの想いを受け止められない人のことを受容できていない人間、子どもの可能性を決めつけてしまう人のことを理解できていない人間と呼ぶのです。
「理解する」ということは、現状をそのまま受け止めることを言うのだろうか。
『受容』という言葉も、『理解』という言葉も、本来、より良い関係性を築いていくために必要な言葉。
しかし、その言葉が、親御さんの心の重りとなり、親と子の距離を遠ざけているように感じるのです。
私も子育て世代の一人であり、同世代の方達からの相談がきます。
中には、私よりも年齢の若い親御さんと関わる場面も出てくるようになりました。
当然、子育ては喜びや楽しみだけではありません。
でも、同世代、また自分より年下の親御さん達があまりにも苦しそうに日々子どもさんと接しているのを見聞きすると、心苦しく思うのです。
親御さん達の口からは、こんな言葉が出てきます。
「私がまだ受容できていないから…」
「私がちゃんと理解してあげられていないから…」
しかし、親御さん達の姿からは、障害を持っているという事実を受け入れ、我が子のことをより良く理解しよう、理解したい、という想いが感じ取れます。
じゃあ、親御さん達の言う『受容』とは、『理解』とは…。
親御さん達の『受容』『理解』という言葉を辿っていくと、支援者の言葉とぶつかります。
誰しもが抱くであろう自然な親心を否定する言葉です。
我が子の未来の可能性を知りたい、いや、信じたい親御さんに対して、すでに未来は決まっているかのごとく、「この子は、生涯支援を受けていく」「特別支援の世界で生きる子だ」と言う。
この子に合った育て方を知りたいのに、返ってくるのは親の振る舞い方と、世の中にはどんな支援があるかということばかり。
我が子の可能性を信じたい、より良く育つ方法を知りたい親御さん達は、支援者から返ってくる言葉によって、その想いに蓋をするようになります。
最初はどの親御さんも持っていた自然な想いなのに、段々1人消え、2人消え、と減っていく。
本当は蓋をしたくないと思っている親御さんからは苦しさがにじみ出ています。
そして、蓋を閉めるとき、親御さんは自分を納得させるためにこう言うのです。
「悩む私が間違っている」
「私が想いを捨てられないのは、受容や理解ができていないからだ」と。
特別支援の世界では頻繁に使われている『受容』や『理解』という言葉。
でも、この言葉によって苦しんでいる親御さんは少なくないと感じます。
何故なら、特別支援の世界で用いられる意味は、一般的な意味とは持ちいられ方が違うから。
全体ではなく、部分。
自然ではなく、人工的。
つまり、一人の人間としてではなく、障害にのみスポットライトが当てられた受容と理解なのです。
一般的な子育て、言うならば、一人の人間として接し、子育てをしようとしている親御さんに対して、ときに「受容できていない親」「理解ができていない親」なんていう言葉が飛んでくることがあります。
一方で、まるで親子ではなく、支援者と対象児のような子育てをされている親御さんが持ち上げられたりすることもあります。
それってただ単に抜け駆けさせないための集まりじゃないですか?というナントカ会や、同じ親同士なのに多様性は認めず、足を引っ張るのが目的ですか?というナントカメンターとかいうのもある。
そういった言葉と先輩たちの姿に、徐々に『受容』と『理解』というのが重みを持つようになり、重苦しさをまとうようになっていく。
『受容』と『理解』という言葉を否定することは難しいです。
本来、前向きな言葉であり、より良い関係性を築くのに必要な言葉だから。
でも、特別支援の世界では誘導する言葉になってしまっている。
その誘導とは、特別支援の世界で生きることへの誘導です。
「考え方を変えたら、ラクになった」という親御さんがいます。
でも、話に耳を傾けると、期待値を下げているだけ、現状を良しとしただけ、ということもあります。
最初は、自立する姿を望んでいたはずなのに、支援を受けながら生きていってくれればいい、無理して働かなくてもいい…と変わっていく。
自立を目標にすると辛くなるから、支援を受けながら生きていければ、と思うようにする。
「発達障害の人は、家事のできるひきこもりを目指す」と言うのも、周りの大人たちがラクになるためのもの。
特別支援の世界で用いられる『受容』と『理解』は、「普通の子育ては止めましょう」「一般的な願いを持つのは止めましょう」と言っている場合があります。
また支援を提供する私達を、私達のやること、言うことを「受容して」「理解して」と言っている場合も。
そしてその言葉が誘導する先は、「支援を受けよう」なのです。
子どもが生まれたから親になるのではなく、子育てをしていくうちに親になるのだと私は思います。
そんなまだ親になる途中である親御さん、右も左もわからない親御さんに対し、寄って集って普通の子育てではなく、障害児としての子育てをするように、と言う。
だから、親御さんは内側にある自然な親心、障害を持っていても大事な我が子であり、一人の人間であるという想い、より良く育ち、自立してほしいという自然な願いを、「こんなものを持っていてはダメだ」と否定するようになってしまう。
親御さん達を苦しめているのは、その子の持つ困難さだけではなく、自然な親心を否定する言葉達であり、否定し続けることを求められることなのだと思います。
だからこそ、私は相談にいらした親御さんに対し、自然な感情を否定する必要はありませんと伝えています。
むしろ、親心があるからこそ、他の誰よりも真剣で力強く、その子の発達と成長の後押しができるのだと思います。
「受容する」「理解する」というのは、子どもと真剣に向き合い、しっかり過去と現在と未来を見る、ということだと思います。
決して自然な感情を否定することではなく、その子の可能性を否定することではありません。
一般の社会では、子どもの想いを受け止められない人のことを受容できていない人間、子どもの可能性を決めつけてしまう人のことを理解できていない人間と呼ぶのです。
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