支援者の勘違い

この仕事を始めて6年目に入りましたが、「最初の支援者があなたです」というような方は一人か、二人ぐらいなもので、あとの方達は、みなさん、誰かしらの支援や助言を受けてきています。
まあ、それは当然と言ったら当然であって、公的な機関でうまくいっていれば、わざわざ私のところまでやってくる必要がないのですから。


過去に受けてきた支援や、各地の支援機関の現状、学校の先生の様子等をお聞きすると、10年前、20年前とは異なり、言うことが専門家らしくなったと感じます。
特別支援以前の支援者たちは、ただその人の人生哲学によって日々接しているという雰囲気がありました。
そのときから比べれば、どの支援者も勉強されており、多くの知識を持っていることが伝わってきます。


では、たくさん勉強し、知識を持った支援者が増えたのに比例して、本人たちの成長や可能性が増えたかというと、そうとは言えないと思います。
むしろ、特別支援以前の支援者の方が、人を育てるのはうまかった、と感じることさえあります。
とにかく、増えた知識が活かされていないと思うのです。


いろんな支援者、支援機関のお話を聞くと、どうも支援者の多くは勘違いしているのではないかと思います。
本人や親御さんよりも、知識を多く持っているのが支援者であり、専門家だという勘違い。
支援者が特別な知識や技能を与えることが支援だという勘違い。
いつから支援者は学者になり、仕事が講釈になったのでしょうか。


その支援や療法がその子に合う合わないは別にして、そんな伝え方ではうまくいかないと思うことばかりです。
支援者が持っている知識を右から左に渡すような伝え方では、いつまで経っても、その子に合った支援はできません。
知識の受け渡しは、その瞬間瞬間の支援にしかなりませんし、第一、本人や親御さんが個別化し、アレンジできる生きた力がつきません。
また、本人や親御さんに代わって支援を組み立て、実行していくのでは、考え工夫する力がつかないばかりか、本人たちの試行錯誤する機会すら奪ってしまいます。


どうして支援者は、本人や親御さんが自立できるように育てないのだろうか、と私は思うのです。
自分は、その子のどこを観て、何を感じ、どう援助していくのか、そこを教えずして、自立も、より良い成長もないと思います。
ですから、私は自分の見る世界を本人や親御さんに伝えます。
知識や療育の形式など、いくら持っていたとしても幸せにはつながりません。
必要なのは自分自身で支援できる力であり、それこそがその時々で合った支援と自立した人生につながるのです。


いつまで経っても、自立できない人ばかりなのは、支援者の勘違いだといえます。
支援者とは知識をたくさん持った人のことを言うのではなく、支援すること自体が役割でもありません。
自立を支援するのが役割です。
そのために、本人も、親御さんも育つ後押しをする。


自分が得た知識や経験を血肉にするのは、敢えて言う必要もないくらい職業人としては当たり前のこと。
そうやって見えるようになった世界を、より分かりやすく本人や親御さんに伝え、自分たちの力で支援できるようになって、初めて仕事をしたということになると私は考えています。
「ああ、息子のこんなところを観ているんですね」
「この行動の意味は、そんな風に捉えることもできるんですね」
そのような視点の共有によって、本人だけではなく、親御さん自身も成長していくのだと思います。


私は、特別支援という言葉が、勘違いを誘発したのだと思っています。
本人と親御さんにとって、発達障害の歴史、グレーゾーンや診断基準の話、なんとか療法の正しい手順などは、どーでも良いことなのです。
自分の、我が子の人生を豊かにし、可能性を広げるには、自分自身で支援を考え、成長し、治していけるように育つことが必要です。


ある意味、そのときの支援方法を伝えるのはラクなことです。
人を育てるのには時間と労力がかかります。
でも、その手間をお金を貰って仕事をしている人間が惜しんではなりません。
今はその手間をラクしようとするコンビニ支援が溢れているように感じます。
発達を援助する、自立を援助する、それこそが本人たちが求めていることだと思いますし、自分の役割だと考え、私は仕事をしています。

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