特別支援から子育てを取り戻す悲しさ
他人様の子を預かって、子育てをしているのなら分かります。
でも、目の前にいるのは我が子。
それなのに、なにか他人様の子を育てているような余所余所しさや緊張した雰囲気が漂っている。
そんなご家族と関わらせてもらうことがあります。
これは子育てが、特別支援になった弊害だと思います。
特別支援は新しい言葉ですが、その概念は何も珍しくも、新しくもないものです。
特別支援は、端的に言えば、一人ひとりに合った教育なり、援助なり、環境づくりを行うということ。
このようなことは、ずっと昔から家庭の中で、学校や古くは寺子屋のようなところでも行われていました。
そして今も、障害のあるなしに関わらず、また子ども、大人に関わらず、家庭や職場、学校や習い事、部活動などで自然と行われているのです。
一人ひとりをよく観て、その人に合った方法で教えていく、伝えていくというのは、人を育てる基本中の基本だといえます。
私の仕事の始まりは、その家庭の中に流れている緊張感を弛め、子育てを特別支援から取り戻すことという場合もあります。
何故なら、親御さんの緊張感はお子さんに伝わりますし、そうなると、自然な交流が生まれなくなるからです。
お子さんの発達を促し、育てていくのは私ではなく、親御さんなのですから、そのご家庭に、親子間に自然な空気感が流れていることが重要です。
大人の側が何か特別なことをしようと身構えると、子どもは瞬時に察し、受け入れるために構え始めてしまいます。
すべての動物がそうであるように、また我々の進化の過程を振り返るとわかるように、発達は自然の中で育まれ、自然な関係性、空気感の中で営まれてきました。
知識や技能の伝達は、文字や言葉など人工的なもので行われてきましたが、発達は自然の中で行われるものなのです。
私達は、発達に遅れやヌケのある子ども達に対し、特別な知識や支援を伝えたいのではありません。
彼らに必要なのは、その発達の遅れやヌケを育て、発達の遅れを取り戻すことであり、そのヌケを埋めることです。
ですから、人工的な支援ではなく、自然な環境、関係性、雰囲気が必要なのです。
家庭の中に自然な雰囲気が漂い始めますと、障害や症状の重い軽い、お子さんの年齢に関わらず、伸びやかに成長が始まります。
まるで、自然の中を駆け巡り、自由を手に入れた動物のようです。
そこに生命力と躍動感を感じます。
遅れやヌケを一気に取り戻そうとする子ども達もいます。
お子さんの姿から解放感を喜ぶ空気が見えますと、私の仕事は次の段階に進みます。
その子の内側から湧き出ている伸びようとする力が、何に対して、どこに向かおうとしているのかを親御さんに伝えます。
そして、私は陰になり、徐々に姿、存在感を消していく。
親子の間に自然な空気が流れ、満ち溢れてきたら、私の役割はおしまいです。
特別支援が子育てに戻ったとき、発達の遅れやヌケは障害ではなくなっていく。
一緒に子育てのひと時を関わらせてもらった親御さんが、最初の険しかった表情が和らぎ、力の入っていた身体が弛み、そして「子どもと関わるのが楽しい」「成長する姿を見るのが喜び」と言われることがあります。
私はその姿と出会うたびに喜びを感じます。
でも、それと同時に悲しみも、怒りも感じるのです。
なぜ、最初に出会った専門家たちは、この親子から子育てを取り上げたのだろうか、と。
彼らがちゃんと言ってあげれば良かったのです。
これから行っていくことは、特別なことではなく、子育てである、と。
子どもを育てるとは、一人ひとりをよく見ること。
そして遅れているところ、気になるところがあれば、それをゆっくり丁寧に育てていけば良い。
子育てを特別支援にし、特別支援で生きるすべを教えようとする。
使えるサービスや診断基準に、特性よりも、どうやって発達を促していけばよいか、具体的な方法の方が重要なはずです。
「子育てが楽しい」と言う親御さんを見て、親御さんは特別支援がしたかったわけでも、支援者になりたかったわけでもないと感じます。
ただ普通に子育てがしたかっただけ。
育てにくいところ、発達の気になるところがあれば、そこを後押しするアイディアがほしいだけ。
専門家にとって、その子は障害児の一人であり、その親は障害児の親の一人。
でも、その親子からすれば、この世に唯一の人。
「一人ひとりをよく見る」と言いながら、障害児の一人としてしか見ていないのは誰なのか。
親も、子も、生まれたときはお互いを自然に見つめ合っている。
でも、目の前にいるのは我が子。
それなのに、なにか他人様の子を育てているような余所余所しさや緊張した雰囲気が漂っている。
そんなご家族と関わらせてもらうことがあります。
これは子育てが、特別支援になった弊害だと思います。
特別支援は新しい言葉ですが、その概念は何も珍しくも、新しくもないものです。
特別支援は、端的に言えば、一人ひとりに合った教育なり、援助なり、環境づくりを行うということ。
このようなことは、ずっと昔から家庭の中で、学校や古くは寺子屋のようなところでも行われていました。
そして今も、障害のあるなしに関わらず、また子ども、大人に関わらず、家庭や職場、学校や習い事、部活動などで自然と行われているのです。
一人ひとりをよく観て、その人に合った方法で教えていく、伝えていくというのは、人を育てる基本中の基本だといえます。
私の仕事の始まりは、その家庭の中に流れている緊張感を弛め、子育てを特別支援から取り戻すことという場合もあります。
何故なら、親御さんの緊張感はお子さんに伝わりますし、そうなると、自然な交流が生まれなくなるからです。
お子さんの発達を促し、育てていくのは私ではなく、親御さんなのですから、そのご家庭に、親子間に自然な空気感が流れていることが重要です。
大人の側が何か特別なことをしようと身構えると、子どもは瞬時に察し、受け入れるために構え始めてしまいます。
すべての動物がそうであるように、また我々の進化の過程を振り返るとわかるように、発達は自然の中で育まれ、自然な関係性、空気感の中で営まれてきました。
知識や技能の伝達は、文字や言葉など人工的なもので行われてきましたが、発達は自然の中で行われるものなのです。
私達は、発達に遅れやヌケのある子ども達に対し、特別な知識や支援を伝えたいのではありません。
彼らに必要なのは、その発達の遅れやヌケを育て、発達の遅れを取り戻すことであり、そのヌケを埋めることです。
ですから、人工的な支援ではなく、自然な環境、関係性、雰囲気が必要なのです。
家庭の中に自然な雰囲気が漂い始めますと、障害や症状の重い軽い、お子さんの年齢に関わらず、伸びやかに成長が始まります。
まるで、自然の中を駆け巡り、自由を手に入れた動物のようです。
そこに生命力と躍動感を感じます。
遅れやヌケを一気に取り戻そうとする子ども達もいます。
お子さんの姿から解放感を喜ぶ空気が見えますと、私の仕事は次の段階に進みます。
その子の内側から湧き出ている伸びようとする力が、何に対して、どこに向かおうとしているのかを親御さんに伝えます。
そして、私は陰になり、徐々に姿、存在感を消していく。
親子の間に自然な空気が流れ、満ち溢れてきたら、私の役割はおしまいです。
特別支援が子育てに戻ったとき、発達の遅れやヌケは障害ではなくなっていく。
一緒に子育てのひと時を関わらせてもらった親御さんが、最初の険しかった表情が和らぎ、力の入っていた身体が弛み、そして「子どもと関わるのが楽しい」「成長する姿を見るのが喜び」と言われることがあります。
私はその姿と出会うたびに喜びを感じます。
でも、それと同時に悲しみも、怒りも感じるのです。
なぜ、最初に出会った専門家たちは、この親子から子育てを取り上げたのだろうか、と。
彼らがちゃんと言ってあげれば良かったのです。
これから行っていくことは、特別なことではなく、子育てである、と。
子どもを育てるとは、一人ひとりをよく見ること。
そして遅れているところ、気になるところがあれば、それをゆっくり丁寧に育てていけば良い。
子育てを特別支援にし、特別支援で生きるすべを教えようとする。
使えるサービスや診断基準に、特性よりも、どうやって発達を促していけばよいか、具体的な方法の方が重要なはずです。
「子育てが楽しい」と言う親御さんを見て、親御さんは特別支援がしたかったわけでも、支援者になりたかったわけでもないと感じます。
ただ普通に子育てがしたかっただけ。
育てにくいところ、発達の気になるところがあれば、そこを後押しするアイディアがほしいだけ。
専門家にとって、その子は障害児の一人であり、その親は障害児の親の一人。
でも、その親子からすれば、この世に唯一の人。
「一人ひとりをよく見る」と言いながら、障害児の一人としてしか見ていないのは誰なのか。
親も、子も、生まれたときはお互いを自然に見つめ合っている。
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