支援には“引き算”が馴染む

子どもの頃、私は足し算より、引き算の方が好きでした。
引き算をしていると、スッキリしていたのを覚えています。
足し算は何だか窮屈な印象で、引き算はどんどん自由になっていく気がしていました。


足し算が窮屈に感じるのは、教わるときも同じです。
教師や大人、子ども同士でも、「知識や技能を教えてやろう」「お前に足してやろう」という雰囲気を感じると窮屈さを感じ、私は避けたり、反発したりしていました。
反対に、停滞の原因となっているものだけをそっと取り除き、「あとは勝手に伸びてきな」という雰囲気の教え方をされると、心地良さを感じ、やる気が出ていました。


足すことに窮屈さを感じ、引くことに自由を感じるのは、今の私にも続いています。
私の支援の基本は、引き算です。
本人と向き合ったとき、その人から何を引いたら、自由になれるかを考えます。
例えば、睡眠障害を引いたら、自由になれるのではないか?
社会に対する恐怖感を引いたら、自由になれるのではないか?
「どうせ自分は障害者だし」という言葉から“どうせ”を引いたら、自由になれるのではないか?
何がその人の可能性、伸びる力に待ったをかけているのか、その障害を取り除くことを考えます。
「この発達課題がクリアできれば、自分自身で伸び伸びと成長していけるな、問題を解決していけるな」と思うと、嬉しくなります。


知識や技能を足そうとする支援を見ると、嫌悪感を懐きます。
なんだか「あなたには足りないから、足してあげる」というような傲慢さを感じますし、主導権が支援者にあるようで、その人が自由に伸びていかない感じがします。
そして何よりも、その人自身が持っている伸びる力、回復する力、より良く変わっていこうとする力の存在を信じていないような気がして反発心を覚えます。


「1から10まで教えていく、手助けしていく」というのは、発達障害の人たちの支援に馴染まないような気がしています。
抜けている、飛ばしている発達課題をクリアする。
生活の支障となっている感覚や体調の問題をクリアする。
彼らの行く手を阻む障害をクリアにし、自由に羽ばたいてもらうための援助活動とイメージすると、私の中ではスッキリするのです。

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