必要な人が安心して医療、福祉サービスを利用できる社会!
昨日、フリーアナウンサー長谷川豊氏が、出演していた番組から降板するという発表がありました。
そのきっかけとなったのは、人工透析に関するブログです。
その表現が報道キャスターとして不適切だったという理由での降板でした。
私も問題になったブログを読みました。
最初に見た瞬間から、不適切な表現があったのはわかりましたし、相当な批判を受けるというのも想像できました。
もしかしたら、本質ではない部分が切り取られて、それこそ炎上するのでは、とも思いました。
本人が言うように「番組降板まで」想像できなかったとは思いますが、多くの批判を受けるのを分かった上で発信であり、相当な覚悟があったのだと思いました。
ちなみに、ある程度の年数が経っても、誰からも批判されない、敵と呼べる人がいないというのは、信念のない働き方をしてきた証拠だと考えています。
本人が意図しなかったとはいえ、誰かを傷つけたり、不快な思いをさせてはいけませんし、それに伴う責任はしっかりとらなければいけないと思います。
でも、このブログを読んだとき、私の中に想いを同じくする部分があったのは事実です。
それは「このままいったら、本当に必要な人が利用できなくなる」「弱い立場の人間が切られていくのを止めなければならない」という点です。
長谷川氏はひっ迫する国民医療費についてでしたが、私は障害者福祉について、特に施設で働いていた頃のことを思いだしました。
施設で働いていた頃、身体的には辛かったですが、精神的にはそこまで辛くなかったんです。
それはどういうことかと言いますと、行動障害を持った人の支援に関して感じていたことなのです。
そりゃあ、行動障害と呼ばれるくらいですから、しんどかったですよ。
さらにそれよりも困難さを抱えている“強度”行動障害の人の支援は、危険な思いも、相当なストレスも、しょっちゅう味わっていました。
それでも、そういった人達の支援をしているとき、「自分たちが支援を頑張らなくてどうするんだ!」という思いがあったのです。
「今まで家でどうやって過ごしていたんだろう…」
「このまま家にいたら、家族ともども崩壊してしまっただろう…」
「ここで改善がみられなければ、それこそ、行く場所がなくなってしまう…」
行動障害の有無に関わらず、こういった思いが浮かんでしまう人達の支援をしているときには、必要な人に必要な支援が行われているという実感があったので、そこまで辛くはありませんでした。
でも…
「本当にこの子は、親元を離れてこの施設に入らないといけなかったんだろうか?」
「本当に行動障害になるべき人だったのだろうか?」
「本当にこの子が使うべき福祉の枠なのだろうか?他に救える子、この場所での支援を必要としている子がいないのだろうか?」
などという思いが浮かんできてしまうとき、精神的なしんどさ、そして虚しさを感じてしまうのでした。
つい先日も、NHKで「縮小ニッポンの衝撃」という番組が放送されました。
これから、どんどん人口は減り続け、地方では今までのような行政サービスができない町、さらに町自体が消滅してしまうということまで予想されています。
これから生まれてくる子ども達が爆発的に増えない限り、または海外から労働世代の人たちを受け入れていかない限り、超高齢化社会はすぐそこまで迫っています。
どう考えても、今のような医療や福祉、行政サービスは維持できないでしょう。
雨後の筍のように増える児童デイを見て、喜んでいる場合じゃないんです。
近い将来、事業所はふるいにかけられて、ただ預かってます、ただ家族のレスパイトです、みたいなところは淘汰されていきます。
だって、国や地域がそんなところまで担えるような力、財源を持たなくなるから。
将来のその子の自立に効果がある事業所に、効率的に振り分けていくしかないのです。
医療だってそうです。
治さない医師、薬だけどんどん処方する医師、ちょっと怪しかったら発達障害ね、みたいな医師は淘汰されていくはずです。
治す医師しかやっていけない時代がくるでしょう。
本来なら自立して生活できるし、働いていけるような資質を持った人が、障害者枠で働く。
本来なら障害者枠で働ける人が、就労支援A型を利用する。
本来なら就労支援A型で働ける人が、就労支援B型を利用する。
本来なら就労支援B型で働ける人が…働ける場所がない…。
私が憤りを感じるのは、このような本来必要な人に、必要な支援、サービスが行き届かない状況なんです。
どんな立場の人にも、満遍なく必要な支援、サービスが受けられる社会が待っているのなら、私は何も言うことはありません。
でも、実際は一番必要な人に、必要な支援、サービスが届きづらくなっている状況があるのです。
私が施設で働いてきたとき、感じていたこととつながります。
入所施設の枠は限られています。
この1つの枠があれば、輝けていた子どもの未来、現実的な話をすれば、子どもも、家族も、救えた命があるのです。
現場の職員には利用者を選ぶ権利はありません。
でも、日々、本当に必要な人に、私達は支援を行いたいと思っていたのは事実です。
私が「治る」や「自立」、「頑張る」にこだわるのは、近い将来の社会、今の子ども達、これから生まれてくる子ども達のことを考えているからです。
「やっと児童デイが増えてきた。グレーの子もサービスを受けられるようになった。さあ、もっと社会に訴えていって、発達障害の人達が安心して暮らせる社会を~」などと言って、建物を青くしてバンサーイ…じゃないんですよ。
見ている世界が狭すぎます。
お年寄りが増えれば、介護サービスだって、医療サービスだって、今よりも必要になってくるのです。
そうなったら、一人ひとりの負担が増えるのは当然の流れですし、サービスの切り捨ても起きてくるでしょう。
日本の労働人口だって減るんですから、お金同様に、福祉、しかもその中で障害者福祉にどれだけの人が集まってくるのでしょうか。
今でさえ、働く人が足りなくて困っている福祉の現場ですよ。
2020年、あと4年後ですね、東京オリンピックの年から人口が減少に転ずると予想されています。
あと4年ですよ!その辺りから日本は変わっていくと思われます。
今のサービスが維持できているだけで儲けものという時代が、すぐそこまでやってきているかもしれません。
今の子ども達が成人する頃、下手したら今の子どもがまだ子どものときに、今の当たり前が当たり前ではなくなる可能性があるのです。
ですから、治せる人は治す、自立できる人は自立する、頑張れる人は頑張ってほしい。
そうしなければ、本当に福祉や医療のサービスが必要な子ども達が利用できなくなってしまうから。
社会は変わろうとも、福祉サービスが削られようとも、支援者はいなくなろうとも、自分はいなくなりません。
自分自身が一番の支援者になれば良いのです。
そうすれば、自分自身の未来のため、本当にサービスが必要な人のため、これから生まれてくる後輩たちのためになるのだと思います。
さあ、できることを今日から始めましょう!明日に向けて。
そのきっかけとなったのは、人工透析に関するブログです。
その表現が報道キャスターとして不適切だったという理由での降板でした。
私も問題になったブログを読みました。
最初に見た瞬間から、不適切な表現があったのはわかりましたし、相当な批判を受けるというのも想像できました。
もしかしたら、本質ではない部分が切り取られて、それこそ炎上するのでは、とも思いました。
本人が言うように「番組降板まで」想像できなかったとは思いますが、多くの批判を受けるのを分かった上で発信であり、相当な覚悟があったのだと思いました。
ちなみに、ある程度の年数が経っても、誰からも批判されない、敵と呼べる人がいないというのは、信念のない働き方をしてきた証拠だと考えています。
本人が意図しなかったとはいえ、誰かを傷つけたり、不快な思いをさせてはいけませんし、それに伴う責任はしっかりとらなければいけないと思います。
でも、このブログを読んだとき、私の中に想いを同じくする部分があったのは事実です。
それは「このままいったら、本当に必要な人が利用できなくなる」「弱い立場の人間が切られていくのを止めなければならない」という点です。
長谷川氏はひっ迫する国民医療費についてでしたが、私は障害者福祉について、特に施設で働いていた頃のことを思いだしました。
施設で働いていた頃、身体的には辛かったですが、精神的にはそこまで辛くなかったんです。
それはどういうことかと言いますと、行動障害を持った人の支援に関して感じていたことなのです。
そりゃあ、行動障害と呼ばれるくらいですから、しんどかったですよ。
さらにそれよりも困難さを抱えている“強度”行動障害の人の支援は、危険な思いも、相当なストレスも、しょっちゅう味わっていました。
それでも、そういった人達の支援をしているとき、「自分たちが支援を頑張らなくてどうするんだ!」という思いがあったのです。
「今まで家でどうやって過ごしていたんだろう…」
「このまま家にいたら、家族ともども崩壊してしまっただろう…」
「ここで改善がみられなければ、それこそ、行く場所がなくなってしまう…」
行動障害の有無に関わらず、こういった思いが浮かんでしまう人達の支援をしているときには、必要な人に必要な支援が行われているという実感があったので、そこまで辛くはありませんでした。
でも…
「本当にこの子は、親元を離れてこの施設に入らないといけなかったんだろうか?」
「本当に行動障害になるべき人だったのだろうか?」
「本当にこの子が使うべき福祉の枠なのだろうか?他に救える子、この場所での支援を必要としている子がいないのだろうか?」
などという思いが浮かんできてしまうとき、精神的なしんどさ、そして虚しさを感じてしまうのでした。
つい先日も、NHKで「縮小ニッポンの衝撃」という番組が放送されました。
これから、どんどん人口は減り続け、地方では今までのような行政サービスができない町、さらに町自体が消滅してしまうということまで予想されています。
これから生まれてくる子ども達が爆発的に増えない限り、または海外から労働世代の人たちを受け入れていかない限り、超高齢化社会はすぐそこまで迫っています。
どう考えても、今のような医療や福祉、行政サービスは維持できないでしょう。
雨後の筍のように増える児童デイを見て、喜んでいる場合じゃないんです。
近い将来、事業所はふるいにかけられて、ただ預かってます、ただ家族のレスパイトです、みたいなところは淘汰されていきます。
だって、国や地域がそんなところまで担えるような力、財源を持たなくなるから。
将来のその子の自立に効果がある事業所に、効率的に振り分けていくしかないのです。
医療だってそうです。
治さない医師、薬だけどんどん処方する医師、ちょっと怪しかったら発達障害ね、みたいな医師は淘汰されていくはずです。
治す医師しかやっていけない時代がくるでしょう。
本来なら自立して生活できるし、働いていけるような資質を持った人が、障害者枠で働く。
本来なら障害者枠で働ける人が、就労支援A型を利用する。
本来なら就労支援A型で働ける人が、就労支援B型を利用する。
本来なら就労支援B型で働ける人が…働ける場所がない…。
私が憤りを感じるのは、このような本来必要な人に、必要な支援、サービスが行き届かない状況なんです。
どんな立場の人にも、満遍なく必要な支援、サービスが受けられる社会が待っているのなら、私は何も言うことはありません。
でも、実際は一番必要な人に、必要な支援、サービスが届きづらくなっている状況があるのです。
私が施設で働いてきたとき、感じていたこととつながります。
入所施設の枠は限られています。
この1つの枠があれば、輝けていた子どもの未来、現実的な話をすれば、子どもも、家族も、救えた命があるのです。
現場の職員には利用者を選ぶ権利はありません。
でも、日々、本当に必要な人に、私達は支援を行いたいと思っていたのは事実です。
私が「治る」や「自立」、「頑張る」にこだわるのは、近い将来の社会、今の子ども達、これから生まれてくる子ども達のことを考えているからです。
「やっと児童デイが増えてきた。グレーの子もサービスを受けられるようになった。さあ、もっと社会に訴えていって、発達障害の人達が安心して暮らせる社会を~」などと言って、建物を青くしてバンサーイ…じゃないんですよ。
見ている世界が狭すぎます。
お年寄りが増えれば、介護サービスだって、医療サービスだって、今よりも必要になってくるのです。
そうなったら、一人ひとりの負担が増えるのは当然の流れですし、サービスの切り捨ても起きてくるでしょう。
日本の労働人口だって減るんですから、お金同様に、福祉、しかもその中で障害者福祉にどれだけの人が集まってくるのでしょうか。
今でさえ、働く人が足りなくて困っている福祉の現場ですよ。
2020年、あと4年後ですね、東京オリンピックの年から人口が減少に転ずると予想されています。
あと4年ですよ!その辺りから日本は変わっていくと思われます。
今のサービスが維持できているだけで儲けものという時代が、すぐそこまでやってきているかもしれません。
今の子ども達が成人する頃、下手したら今の子どもがまだ子どものときに、今の当たり前が当たり前ではなくなる可能性があるのです。
ですから、治せる人は治す、自立できる人は自立する、頑張れる人は頑張ってほしい。
そうしなければ、本当に福祉や医療のサービスが必要な子ども達が利用できなくなってしまうから。
社会は変わろうとも、福祉サービスが削られようとも、支援者はいなくなろうとも、自分はいなくなりません。
自分自身が一番の支援者になれば良いのです。
そうすれば、自分自身の未来のため、本当にサービスが必要な人のため、これから生まれてくる後輩たちのためになるのだと思います。
さあ、できることを今日から始めましょう!明日に向けて。
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