本来は、どういった人物なのだろう

学生時代、ボランティアで関わっていた子の親御さんが、こんな話をしてくれました。
「私、朝起きたら、この子がしゃべれるようになって、普通の子になってる夢を見るんだ」って。
そして、この前はこんなことをした、今日はこんなことを言った、などと話をしてくれました。
この親御さんが語る夢の話には悲壮感ではなく、明るさ、楽しみ、我が子への愛情が漂っていました。


この親御さんとの会話をきっかけに、「この子がしゃべれるようになったら、どんなことを言うだろうか?」「もし知的障害がなかったとしたら、どういった仕事をするだろうか?」などを想像するようになりました。
ボランティアで関わっていた子の他の親御さんとも、「たぶん、こんな部活動してたんじゃないかな」「どちらかというと文系の大学かな」「この子、おじいちゃん子だから、介護系の仕事を目指したかもね」「私は勉強も、学校も、嫌いだったから、すぐに就職したんじゃない」などと、一緒に話をして盛り上がることがありました。
みなさん、親の希望や願い、夢よりも、目の前にいる子どもの姿から始まる連想を語ってくれたのが印象深く残っています。
親御さんの語る子どもの姿には、目の前にいる子との重なり、リアリティをいつも感じていました。


施設職員になったあとも、このように「知的障害がなかったら…」「行動障害がなかったら…」「もししゃべれるようになったら…」と、どんな大人になるのかな、どんな人生を歩むんだろうか、どんなことを言うだろうか、など頭の中で想像しながら、日々、支援していました。
サッカー部に入っていただろうと思う子とは、サッカーをして遊んだりしました。
ペットを飼っていただろうと思う子とは、ペットショップに行って、犬や猫を見て過ごしたりしました。
明るい曲が好きそうだな、女の人の歌声が好きそうだな、と思う子には、そのような音楽を用意して聴いてもらったこともありました。
あのときのように、自分が想像した姿にリアリティが感じられると、支援が良い方向へと流れていっていました。


なんでこのようなことを思いだしたかと言いますと、この前、久しぶりに会った親御さんから「4年前に言ってた通りになりました!」と言われたからです。
この親御さんのお子さんが、まだ学校に通っていた頃、進路の話になったんです。
そのとき、私はもし知的障害がなければ、アパレル系の仕事を目指していたと思うこと、流行の先端みたいなお店の方がテンションが上がりそうなこと、をお話ししました。
それから月日は流れ、縁あって現在、アパレルの仕事をしていて、毎日、喜んで仕事に行っているとのことでした。
最初は限られた時間の限られた仕事でしたが、働きが認められ、障害者雇用枠ですが、社員として働けるようになったとの報告でした。
結果論かもしれませんが、4年前のそのとき、その若者が今働いているお店で仕事している姿がリアルに想像できたんですね。
ですから、ずっとそのお店と縁があれば良いなと思っていました。


人によっては、「障害がなければ…」と考えることにネガティブな感情を持つ人もいるかもしれません。
でも、その“人”をきちんと見ることにつながりますし、近い将来を想像する上でも、支援を考える上でも、大切な視点だと感じています。
「本来は、こういった人物ではないのかな」
「内側には、こんな希望やあんな夢を持っているんじゃないのかな」
「この子の資質は、〇〇の方へと進みたがってるはず」
こんなことを想像しながら、今も変わらず関わらせてもらっています。

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