「二次障害を防ぐ支援」という言葉の持つ違和感

以前は憤りを感じていましたが、今では悲しく感じるようになりましたね。
「適切な支援を受けなければ、二次障害になりますよ~」
「周囲の無理解が、二次障害へとつながりますよ~」
という支援者の言葉。
こういった脅しをしなければ、人を集められない支援者、事業所の力量に悲しみを感じます。
まあ、お金を出して載せている広告なのですから、私がどうのこうの言う立場ではないんでしょうが…。


改めて「二次障害にならないための支援」「二次障害を防ぐ支援」って何なのでしょうか。
私の中では、どうしても二次障害を“防ぐ”と“支援”が結びつきません。
私達が行う支援って、その人の発達を加速させるためのお手伝いというイメージです。
支援には後押しするという力強さがあり、動きを感じます。
でも、“防ぐ”っていう文字からは動きを感じず、その場に留めるというイメージが表れます。
ですから、二次障害を防ぐ支援って、動きを止めちゃうような、役割を打ち消すような、で違和感を感じます。


「二次障害にならないために、うちの支援を受けにおいで」と言うのは、子どものための言葉ではない気がします。
(そもそも商売のテクニックとしても、方向性を間違えている気が…)
子どもには動きがあります。
成長を追い求める動きです。
揺らぎやもがきが試行錯誤へとつながり、試行錯誤が成長へとつながります。
「揺らがなくても良いよ」「もがかなくても良いよ」というのは、優しい言葉のようで残酷な言葉です。
子どもの動きを制止する言葉であり、「成長しなくても良いよ」と言っているようなものですから。


伸び伸びと動きたいのが、子どもです。
伸びやかさがなくなると、子どもらしさがなくなります。
ですから、伸び伸びと動けるように、環境を整え、後押しするのが大人の役目ですし、子ども自身もそれを求めています。
決して子どもの上に覆いかぶさって、子どもの周りに囲いを作ってはいけません。
それこそ、心身が不健康な方へと向かってしまいますので。
動きたいのに、試行錯誤したいのに、成長したいのに、それが阻まれるから病んでいくのだと思います。
「二次障害を防ぐ支援をすると、二次障害になる」というブラックジョークが浮かんでしまいます。


支援という言葉には動きを感じますので、伸びる、学ぶ、身に付ける、乗り越えるなどの動きのある言葉とつながって、動きが加速されるイメージが湧いてくると、支援者のための支援ではなく、本人のための支援になったような気がします。

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