広がりのあるコミュニケーションの形態を目指す
そういえば、ズボンからコミュニケーションカードをじゃらじゃらぶら下げて歩いていた子がいましたね。
あとコミュニケーションブックといって、分厚いファイルを首からぶら下げていた子も。
確か2010年前後でPECSブームがあり、その頃の子ども達は、結構持っていたと思います。
今はどうでしょうかね。
当時から私はじゃらじゃらCOMカード、分厚いCOMブックを否定的に見ていました。
だって、あれじゃあ、持って歩くの大変でしょ。
首から下げたら、首痛くなるし。
ちっちゃな男の子が、ズボンがずれ落ちるのを必死に上げながら、大量のCOMカードをぶら下げて歩いてるのって、歩きにくいと思うけど。
というか、遊ぶために外出しているのに、これでは思いっきり全身で遊べないって、気になるし。
それに歩くのにリソースを使う子、発達課題がある子にとっては、重りをつけて歩いているようなものだと思いますね。
「これは何かのトレーニングですか」って思うくらい重いのもありました、実際にズボンに下げたり、首から下げたりしたら。
まあ、大量のカード、立派なCOMブックは、支援者にとって安心材料になるのでしょう。
見えない、もしくは見せられない支援の成果を示すことができますので。
「こんなにたくさんカード作りましたよ」
「私って立派な支援者でしょ」
とPRする手段の一つ。
どう考えても、今流行の“子どもファースト”ではないよね。
「この子にとっては、唯一のコミュニケーション手段なんですぅ~~~」っていう人もいましたが、それはどうかなって思います。
子ども達の中には、「このCOMカードの中でしか、コミュニケーションしてはいけない」って思っている子もいますので。
山奥で支援員をしていた頃、ショートステイの子がよく来ていました。
その子達の中には、家庭で、また通学している学校で使っているCOMカードを持ってくる子もいましたね。
で、そういった子の多くは、往々にして持たされてるんですね、支援者、もしくは親に。
だから、食堂に行くときとか、外出に出かけるときとか、遊んでいるときとか、持ってこないんです。
職員もそれに気が付かず、普通に食事を摂ったり、外出したり、遊んだりする。
そうすると、COMカードがなくても、コミュニケーションするんです。
物を使ったり、ジェスチャーしたり、片言の言葉を言ったりして。
こっちも、いつもいない子だから何がCOMカードの中にある発信なんか知らないので、本人の純粋な発信に耳を傾けます。
あとから、家庭から持ってきたCOMカードを見て、「カード無いけど、伝えられたじゃん」とか、退所の際、親御さんにこんな発信ありましたよって言ったら、「伝えられるとは思いませんでした」なんて驚かれることも、しばしばありましたね。
というか、COMカードやブックがない方が、豊かな発信じゃないって子もいましたよ。
食堂のテーブルの上にCOMカードがあったら、何も発信せず黙って座っていた子が、それを見えなくした途端、「グリンピース、バイバイ」って言いました。
COMカードには、「減らしてください」ってのがあったのに。
このようにCOMカードを批判的に書いてきた私も、支援で用いなかったわけではありませんよ。
ちゃんと目的がありましたので、むやみやたらに増やすことだけを考えて支援はしなかっただけです。
コミュニケーションって相手がいることなので、一方的に発信するものではありません。
コミュニケーションって「相手とのやり取り」ですね。
だから、一方的に言いたいことを言うのは、コミュニケーションとは言いません。
「相手とのやりとり」っていうのを、カードを渡す→相手が受け取る→相手から反応があるっていう見える形で具体化し、コミュニケーションの意味を学んでもらうために用いていました。
あとはバックアップ機能としてのCOMカードです。
普段は言葉やジェスチャーで発信できる子も、外出など苦手な場面で緊張するとき、心身の状態が悪いときなど、発信できなくなることがありますよね。
そういったとき、何と言ったらよいか思いだすリマインダーとして、または発信が難しくなったときにカードを見せる、指さす、触る、渡すだけで、自分の気持ちが伝わるように、ということで数枚のカードを持ち歩いてもらうこともしました。
ここからは本音をズバリ。
ズボンや首からじゃらじゃらCOMカード、重たいCOMブックのゴールはなんでしょうかね。
最終目的は、辞書を作ることですかね。
この支援って永遠に終わりがありません、本人の気持ちをすべてカードに表そうとしたら。
またもっと恐ろしいことは、本人が言いたいこと、伝えたこと、内から湧き出る感情、気持ちを自分ではなく、他人が枠をつけちゃうことなんですね。
先ほどの子のように、COMカードにあるもの“だけ”しかコミュニケーションしてはならないと捉える危険性がありますし、COMカードにあるもの“だけ”が自分の気持ちであると捉える危険性もあります。
だいたい良く考えてみるとわかるのですが、人の気持ちを50音の文字だけで表せるわけじゃないでしょ。
「言葉に表せない気持ち」なんて言いますよね。
こういったときには、「言葉に表せない気持ちです」っていうカードを作るのでしょうかね。
まあ、100歩譲って、すべての気持ちをCOMカードで表せられるとしても、辞書を作るくらいの労力、根性を持った支援者っていますかね、それも一人に対して。
支援者の言葉のセンスも大丈夫??挨拶もままならないのに(ブ)
ですから、じゃらじゃら&重たいCOMカードを作るんだったら、より自由度の高い発信形態を目指しましょう。
自分ファーストの形態。
この意味は、発信の第一歩が本人であること。
絵や文字カードを使うにせよ、自分で紙に絵や文字を書いて伝えられることを目指すんです。
「支援者が作ってくれないと伝えられませんよー」という形態は、他者の手によって制限が加えられるということ。
支援者がサボったら、発信は増えていきませんし、支援者が持ち込みを禁止したり、取り上げたり、紛失したら使えなくなっちゃいます。
できるのなら、自分の身体を使う発信が良いですね。
どこにいっても、身体はついてきますし、持ち込めますから。
あとコミュニケーションブックといって、分厚いファイルを首からぶら下げていた子も。
確か2010年前後でPECSブームがあり、その頃の子ども達は、結構持っていたと思います。
今はどうでしょうかね。
当時から私はじゃらじゃらCOMカード、分厚いCOMブックを否定的に見ていました。
だって、あれじゃあ、持って歩くの大変でしょ。
首から下げたら、首痛くなるし。
ちっちゃな男の子が、ズボンがずれ落ちるのを必死に上げながら、大量のCOMカードをぶら下げて歩いてるのって、歩きにくいと思うけど。
というか、遊ぶために外出しているのに、これでは思いっきり全身で遊べないって、気になるし。
それに歩くのにリソースを使う子、発達課題がある子にとっては、重りをつけて歩いているようなものだと思いますね。
「これは何かのトレーニングですか」って思うくらい重いのもありました、実際にズボンに下げたり、首から下げたりしたら。
まあ、大量のカード、立派なCOMブックは、支援者にとって安心材料になるのでしょう。
見えない、もしくは見せられない支援の成果を示すことができますので。
「こんなにたくさんカード作りましたよ」
「私って立派な支援者でしょ」
とPRする手段の一つ。
どう考えても、今流行の“子どもファースト”ではないよね。
「この子にとっては、唯一のコミュニケーション手段なんですぅ~~~」っていう人もいましたが、それはどうかなって思います。
子ども達の中には、「このCOMカードの中でしか、コミュニケーションしてはいけない」って思っている子もいますので。
山奥で支援員をしていた頃、ショートステイの子がよく来ていました。
その子達の中には、家庭で、また通学している学校で使っているCOMカードを持ってくる子もいましたね。
で、そういった子の多くは、往々にして持たされてるんですね、支援者、もしくは親に。
だから、食堂に行くときとか、外出に出かけるときとか、遊んでいるときとか、持ってこないんです。
職員もそれに気が付かず、普通に食事を摂ったり、外出したり、遊んだりする。
そうすると、COMカードがなくても、コミュニケーションするんです。
物を使ったり、ジェスチャーしたり、片言の言葉を言ったりして。
こっちも、いつもいない子だから何がCOMカードの中にある発信なんか知らないので、本人の純粋な発信に耳を傾けます。
あとから、家庭から持ってきたCOMカードを見て、「カード無いけど、伝えられたじゃん」とか、退所の際、親御さんにこんな発信ありましたよって言ったら、「伝えられるとは思いませんでした」なんて驚かれることも、しばしばありましたね。
というか、COMカードやブックがない方が、豊かな発信じゃないって子もいましたよ。
食堂のテーブルの上にCOMカードがあったら、何も発信せず黙って座っていた子が、それを見えなくした途端、「グリンピース、バイバイ」って言いました。
COMカードには、「減らしてください」ってのがあったのに。
このようにCOMカードを批判的に書いてきた私も、支援で用いなかったわけではありませんよ。
ちゃんと目的がありましたので、むやみやたらに増やすことだけを考えて支援はしなかっただけです。
コミュニケーションって相手がいることなので、一方的に発信するものではありません。
コミュニケーションって「相手とのやり取り」ですね。
だから、一方的に言いたいことを言うのは、コミュニケーションとは言いません。
「相手とのやりとり」っていうのを、カードを渡す→相手が受け取る→相手から反応があるっていう見える形で具体化し、コミュニケーションの意味を学んでもらうために用いていました。
あとはバックアップ機能としてのCOMカードです。
普段は言葉やジェスチャーで発信できる子も、外出など苦手な場面で緊張するとき、心身の状態が悪いときなど、発信できなくなることがありますよね。
そういったとき、何と言ったらよいか思いだすリマインダーとして、または発信が難しくなったときにカードを見せる、指さす、触る、渡すだけで、自分の気持ちが伝わるように、ということで数枚のカードを持ち歩いてもらうこともしました。
ここからは本音をズバリ。
ズボンや首からじゃらじゃらCOMカード、重たいCOMブックのゴールはなんでしょうかね。
最終目的は、辞書を作ることですかね。
この支援って永遠に終わりがありません、本人の気持ちをすべてカードに表そうとしたら。
またもっと恐ろしいことは、本人が言いたいこと、伝えたこと、内から湧き出る感情、気持ちを自分ではなく、他人が枠をつけちゃうことなんですね。
先ほどの子のように、COMカードにあるもの“だけ”しかコミュニケーションしてはならないと捉える危険性がありますし、COMカードにあるもの“だけ”が自分の気持ちであると捉える危険性もあります。
だいたい良く考えてみるとわかるのですが、人の気持ちを50音の文字だけで表せるわけじゃないでしょ。
「言葉に表せない気持ち」なんて言いますよね。
こういったときには、「言葉に表せない気持ちです」っていうカードを作るのでしょうかね。
まあ、100歩譲って、すべての気持ちをCOMカードで表せられるとしても、辞書を作るくらいの労力、根性を持った支援者っていますかね、それも一人に対して。
支援者の言葉のセンスも大丈夫??挨拶もままならないのに(ブ)
ですから、じゃらじゃら&重たいCOMカードを作るんだったら、より自由度の高い発信形態を目指しましょう。
自分ファーストの形態。
この意味は、発信の第一歩が本人であること。
絵や文字カードを使うにせよ、自分で紙に絵や文字を書いて伝えられることを目指すんです。
「支援者が作ってくれないと伝えられませんよー」という形態は、他者の手によって制限が加えられるということ。
支援者がサボったら、発信は増えていきませんし、支援者が持ち込みを禁止したり、取り上げたり、紛失したら使えなくなっちゃいます。
できるのなら、自分の身体を使う発信が良いですね。
どこにいっても、身体はついてきますし、持ち込めますから。
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