違和感に対する私の答え
家に帰ると、スケジュールを確認し、淡々と日課を行う。
そして、余暇エリアに行き、自分の時間を過ごす子どもの姿。
また、その子どもの様子を遠くから見ていて、必要があるとき以外は、ほとんど声をかけることがない親御さんの姿。
その姿を見て、私は違和感を感じていた。
それは、私が小学校の先生を目指していたからかもしれない。
特別支援に携わって生きるなんて、これぽっちも思っていなかった。
私がイメージできる子どもの姿は、定型発達の子どもの姿。
でも、TEACCHの考え方を積極的に取り入れている地域だったから、これが自閉症の子ども達にとって最良の環境だと思っていた。
一人で日課を行い、余暇の時間を過ごせることは将来の自立のために必要なこと。
親御さんが必要以上に声をかけないのも、余計なストレスや混乱を与えないためであって、子どものことを思ってのこと。
私はそのように受け止めていた。
自閉症児施設に就職したあとも、私は自立を目指すための仕事だと思っていた。
自分でできることを増やし、支援者からの手助けを減らしていく。
そして、将来、より自由度の高い生活の場へと移行していけるようにする。
しかし、福祉が求めるものは違った。
福祉も自立を目指していた。
でも、それは自分たちの手の中での自立。
つまり、自分たちの手がかからないようにすること。
何でも一人でできるようになっては困るのだ。
自分たちの施設から出ていってもらっては困るのだ。
福祉は支援し続けることで、安定する仕事だから。
これは施設職員のときの違和感。
そして、もう一つの違和感。
それは親御さんが親になる機会、瞬間を奪っているのではないか、というもの。
児童施設という性質もあって、幼児期から高等部の子ども達が生活していた(成人の方もいたが)。
それも地元の子どもだけではなく、全道、全国から来ていた。
毎週、必ず会いに来てくれる親御さんもいる一方で、一年に1回も会いに来ない親御さんもいた。
こういった親御さんの子どもの場合、私たち支援員が親代わりのような存在になる。
でも、それは同時に、親としての大変さだけではなく、成長の喜びも、私たち他人が手にしているような気がしていた。
入所当初は、毎日のように電話があり、距離に関わらず会いに来ていてくれた親御さんが、だんだんと電話がなくなり、足が遠のいていく。
そして、久しぶりに会うたびに、よそよそしさが増していく姿。
親御さんも、子どもも。
この3つの違和感に対する答えが、私の事業の中にある。
親御さんを親御さんのままでいられる手助けをしたい。
つまり、親御さんを支援者にしないこと。
自閉症への関わり方よりも、我が子への関わり方を優先し、味わってほしいと思う。
感情的に怒ってしまうこともあれば、思わず抱きしめたくなることもある。
それが自閉症支援の適切な方法ではなかったとしても。
「構造化がうまくいった」「適切な対応ができた」ではなく、親として子の成長を純粋に喜び、自分を信じて子育てをしてほしいと思う。
親と子の間の育ち合いを邪魔せず、求められればアイディアを提供できる存在でいたい。
そして、本当の意味での自立ができるような手伝いをしたい。
動物はみな、我が子に餌の取り方を教える。
何故、餌の取り方を教えるかといえば、我が子が自分一人で生きていけるようにするため。
この地球上に動物が誕生してから今まで脈々と続けられてきた行為。
それは学習ではなく、動物というDNAの中に組み込まれているものだろう。
特別支援が登場し、動物としての自立ではない自立が生まれた。
親としては自立させたい。
そのための子育てがしたい。
でも、それに待ったを掛けるようなメッセージが人間の脳に届けられる。
だから、哺乳類の脳と、人間の脳の間で葛藤が生まれ、親御さんを苦しめているのだと思う。
私は、動物的な自立の手伝いをしたい。
親は子よりも、先に死ぬ。
当然、私も一生支援し続けることなどできない。
だからこそ、その人が自立するために必要な学びのお手伝いをし、自立した後も、自立し続けられる方法を伝えていく。
これが違和感への私の答え。
やっと言葉にすることができた。
それは、この本を読んだから。
人口的な支援、療育を頼らず、親が持つ自然なものを大切にし、二人のお子さんを立派に育て上げた記録。
今、まさに子育て中の親御さん達に、観察のポイント、教え方のアイディアだけではなく、「私が主体となって子育てをしていくんだ!」という勇気も与えてくれる本だと思います。
本来、子どもが持っている"成長する力"と、親御さんの中にある"子どもを育てる力"が、最大限発揮できるような支援を続けていきたい。
そして、余暇エリアに行き、自分の時間を過ごす子どもの姿。
また、その子どもの様子を遠くから見ていて、必要があるとき以外は、ほとんど声をかけることがない親御さんの姿。
その姿を見て、私は違和感を感じていた。
それは、私が小学校の先生を目指していたからかもしれない。
特別支援に携わって生きるなんて、これぽっちも思っていなかった。
私がイメージできる子どもの姿は、定型発達の子どもの姿。
でも、TEACCHの考え方を積極的に取り入れている地域だったから、これが自閉症の子ども達にとって最良の環境だと思っていた。
一人で日課を行い、余暇の時間を過ごせることは将来の自立のために必要なこと。
親御さんが必要以上に声をかけないのも、余計なストレスや混乱を与えないためであって、子どものことを思ってのこと。
私はそのように受け止めていた。
自閉症児施設に就職したあとも、私は自立を目指すための仕事だと思っていた。
自分でできることを増やし、支援者からの手助けを減らしていく。
そして、将来、より自由度の高い生活の場へと移行していけるようにする。
しかし、福祉が求めるものは違った。
福祉も自立を目指していた。
でも、それは自分たちの手の中での自立。
つまり、自分たちの手がかからないようにすること。
何でも一人でできるようになっては困るのだ。
自分たちの施設から出ていってもらっては困るのだ。
福祉は支援し続けることで、安定する仕事だから。
これは施設職員のときの違和感。
そして、もう一つの違和感。
それは親御さんが親になる機会、瞬間を奪っているのではないか、というもの。
児童施設という性質もあって、幼児期から高等部の子ども達が生活していた(成人の方もいたが)。
それも地元の子どもだけではなく、全道、全国から来ていた。
毎週、必ず会いに来てくれる親御さんもいる一方で、一年に1回も会いに来ない親御さんもいた。
こういった親御さんの子どもの場合、私たち支援員が親代わりのような存在になる。
でも、それは同時に、親としての大変さだけではなく、成長の喜びも、私たち他人が手にしているような気がしていた。
入所当初は、毎日のように電話があり、距離に関わらず会いに来ていてくれた親御さんが、だんだんと電話がなくなり、足が遠のいていく。
そして、久しぶりに会うたびに、よそよそしさが増していく姿。
親御さんも、子どもも。
この3つの違和感に対する答えが、私の事業の中にある。
親御さんを親御さんのままでいられる手助けをしたい。
つまり、親御さんを支援者にしないこと。
自閉症への関わり方よりも、我が子への関わり方を優先し、味わってほしいと思う。
感情的に怒ってしまうこともあれば、思わず抱きしめたくなることもある。
それが自閉症支援の適切な方法ではなかったとしても。
「構造化がうまくいった」「適切な対応ができた」ではなく、親として子の成長を純粋に喜び、自分を信じて子育てをしてほしいと思う。
親と子の間の育ち合いを邪魔せず、求められればアイディアを提供できる存在でいたい。
そして、本当の意味での自立ができるような手伝いをしたい。
動物はみな、我が子に餌の取り方を教える。
何故、餌の取り方を教えるかといえば、我が子が自分一人で生きていけるようにするため。
この地球上に動物が誕生してから今まで脈々と続けられてきた行為。
それは学習ではなく、動物というDNAの中に組み込まれているものだろう。
特別支援が登場し、動物としての自立ではない自立が生まれた。
親としては自立させたい。
そのための子育てがしたい。
でも、それに待ったを掛けるようなメッセージが人間の脳に届けられる。
だから、哺乳類の脳と、人間の脳の間で葛藤が生まれ、親御さんを苦しめているのだと思う。
私は、動物的な自立の手伝いをしたい。
親は子よりも、先に死ぬ。
当然、私も一生支援し続けることなどできない。
だからこそ、その人が自立するために必要な学びのお手伝いをし、自立した後も、自立し続けられる方法を伝えていく。
これが違和感への私の答え。
やっと言葉にすることができた。
それは、この本を読んだから。
人口的な支援、療育を頼らず、親が持つ自然なものを大切にし、二人のお子さんを立派に育て上げた記録。
今、まさに子育て中の親御さん達に、観察のポイント、教え方のアイディアだけではなく、「私が主体となって子育てをしていくんだ!」という勇気も与えてくれる本だと思います。
本来、子どもが持っている"成長する力"と、親御さんの中にある"子どもを育てる力"が、最大限発揮できるような支援を続けていきたい。
支援者なくとも、自閉っ子は育つ 親子でラクになる!34のヒント
こより著 栗本啓司、浅見淳子(編集)
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