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想像力の問題は、自立を妨げる本丸

いつも疑問に思うのですが、「治るなんてインチキだー」「トンデモだー」と言っている人、それは何を見て、そう言っているのでしょうか? そうやって、見ず知らずの当事者の方や親御さん達のことを批判し、また治るという考えの元、発達援助、後押しをしている人達のことを、人を騙して儲けているかのように表現する。 それくらいの発言をしているのですから、それなりの覚悟と根拠があるのでしょう。 「治る」と言っている人達が、どのような育て方をしているのか、また「治った」と言っている人が、どういう人なのか、それを自分の目で確かめない限り、本当の意味で批判することはできないと思います。 というか、そういった確認をしないで、相手のことを調べもせず、ただ自分の考えのみで批判するのは、便所の落書きレベル。 本来なら、見向きもされないのが普通です。 でも、ツイッターとかで反応を貰っちゃうと、あたかも自分が正しいことを言っているかのように勘違いする。 何故なら、こういった自分の身体を通した確認ではなく、自分の頭の中で作った物語で生きているから。 つまり、想像力に問題があるから、勘違いを起こすのです。 昔、発達障害の子ども達は天使だ、なんて言っていた支援者がいました。 天使なんかであるものですか。 発達障害の人も、定型発達の人と同じように他人を傷つけることもある。 特に、想像する力の問題が、引き金になることが多い。 相手の気持ちを想像することの欠如。 自分勝手な脳内論理で善悪を判断し、独りよがりの行動を起こすことは珍しくない。 社会や周囲の理解よりも、この想像の問題が問題なのです。 支援者から「様子を見ましょう」と言われた経験は、どの親御さんもあることだと思います。 でも、その理由が「敢えて引き延ばすことで、自分たちの推奨する支援を利用してくれること」という本音を聞いたら、みなさん、どう思うでしょうか。 治る道を進む人、標準療育の道を進む人、そんなのは関係なく、どの親御さんも怒りがこみあげてくるのではないでしょうか。 自分の命を分けて生んだ子に障害があると分かったとき。 そして、その子の障害と向き合うことを決め、我が子のためにできることは何でもするという腹をくくり、頼った専門家が「様子を見ましょう」と繰り返す。 様子を見たいから、相談に行ったのでは...

「問題行動は無視」は、半分あおい

「問題行動は無視」という標語は、腐るほど、耳にしました。 で、この「問題行動は無視」というのは、ある部分は合っていて、半分足りません。 自閉症児施設で、かつ、強度行動障害の人達の支援をしていましたので、問題行動と向き合うことが仕事とも言える状態でした。 問題行動に対して、その知識や技能がない、何ら手立てが浮かばない、というのでは、仕事ができませんし、何より自分の身を滅ぼすことにもなります。 ですから、その当時、良いと言われているものは、すべて学びましたし、有休は使えなかったので(そもそも存在していない!?)、休みをどうにかやりくりし、全国どこでも行って研修を受けました。 今から10年以上前になるその当時から、「問題行動は無視」という標語はよく耳にしていました。 でも、これは問題行動なら何でも無視すればいい、という話ではありませんし、大事な後半部分が抜けているのです。 問題行動は無視ししても、良くなることはありません。 いや、良くなることなんか、あり得ません。 私が施設で働いていたときも、そんなことをする人なんか、現場に一人としていませんでした。 もし、それをやっていたとしたら、支援者は死んでいます。 私も、臨時で急遽、いつもとは違う寮に入ったとき、ちょっと気を抜いた瞬間、ある利用者の人が後ろ向きに倒れ掛かってくることがありました。 その利用者は、体重100㎏オーバーで180㎝以上の大きな人。 その人の側を通った瞬間、倒れ掛かってきたので、そのまま、下敷きになりました。 一人勤務でしたし、持ち上げることも、抜け出すこともできない状態でしたので、こりゃあ、終わったかな、とも思いました。 でも、この利用者さんが男性だったから、助かった。 まあ、このように飛んでくるのは大男だけではなく、手も、足も、食器も、家具もです。 噛みつき、頭突きは日常茶飯事。 だから、現場の職員は、問題行動を無視しないし、そもそも単に「無視しましょう」という話ではなかったはずです。 私が学んだ知識としても、現場での経験としても、他人を巻き込む問題行動はコミュニケーションとして捉えます。 どういった意図を持ち、相手に向かって来ているか、その意図、伝えたいことを確認します。 そのとき、例えば、「喉が渇いた」「水が飲みたい」という要求の意図で、...

「現状維持」という負の遺産

未だに「現状維持できていたら、良い支援」と言っている支援者がいるそうですね。 それって、私が学生時代に、支援者たちがよく言っていた言葉です。 脳機能の障害から神経発達の障害だと明らかになった今でも、そんなことを堂々と面前の前で言える根性がすごいと思いますよ。 だって、「私には現状維持できることで精一杯ですから」と言っているようなものだからです。 この発言を最初に聞いたときは、感じませんでしたが、仕事を続けていく中で、この言葉の持つ意味の恐ろしさを感じるようになりました。 「現状維持を目指す支援」とは、どういった支援のことでしょうか。 ヒトは現状維持できない生き物です。 外面的には変化はないように感じますが、その内部を見れば、1秒たりとも同じ状態はないのです。 特に、神経発達が盛んな時期を過ごす子ども達は、環境から伝わってくる刺激に反応し、発達と成長へ向かって常に変化し続けています。 ということは、「現状維持を目指す支援」とは刺激を与えない支援のことを表しています。 なるべく変化はなく、いつもと変わらない一定の刺激を与える、または刺激自体を調整し、遮断してしまう。 これは、「いつも同じ日課、スケジュール、流れを崩さない」といった独自の解釈で構造化された支援を続けていた人達の姿と重なります。 あの当時、「現状維持」と言っていた支援者たちは、みんな視覚支援、構造化信仰の人達だったので、自分たちの支援の妥当性を「現状維持」という言葉で表していたのでしょう。 「現状維持」を鵜呑みにしていた人達は、どうなったか。 一日、一日をなるべく変化がなく、混乱のきっかけになるような刺激をすべて排除していった。 感覚過敏で苦しまないように、いつも同じ食事を用意し、苦手な音が聞こえてこないように神経をとがらせ、本人を誘導していった。 その結果、当然、発達の機会は奪われたために課題は残りっぱなし。 現状維持を目指しいても、どんどん課題は大きくなるばかり。 結局、現状維持は、生きづらさの現状維持という意味になったのです。 名のある支援者の「現状維持」という言葉を聞いて、それを信じた親と支援者。 でも、この人達には想像する力が足りなかった。 その支援者の言葉の裏に隠された意味を。 そして、自分の目の前にいる子どもが、その言葉を聞いたら、ど...

「治る」は甘い言葉なのか?

睡眠障害や行動障害で悩んでいた子が、寝られるようになり、落ち着いて、みんなと活動できるようになった。 「一生、支援を受けて生きる人です」と言われていた子が、クローズで一般就労して何年も経っている。 支援級の子が、普通級で学べるようになり、手帳を持っていた子が返納している。 そういった姿を間近で見てきた人達が、その様子を見て「治った」と言う。 それのどこが甘言になるのか、わかりませんね。 何らかの理由から、神経発達にヌケや遅れが生じた人達がいる。 だから、そのヌケや遅れの根っこを確認し、そこから育て直していけば、神経発達が起きるでしょうし、障害と言われている状態から飛びだして発達していく人がいても不思議ではありません。 そういったことが想像できない方が問題な脳みそなんだと思います。 治った本人、治った人を傍で見てきた人が「治る」と言うと、その歩みに興味がひかれ、自分でもやってみよう、そのアイディアを取り入れてみようとする人達が出てくるのは自然な流れです。 でも、「自分も治りたい」「我が子も治ってほしい」と願い、治る道を選択する人達を見て、「甘い言葉につられてしまう可哀想な人」というように捉える人がいます。 これまた想像力の欠如と言わざるを得ません。 「発達障害は脳の機能障害だから一生治らない」と思うのも、考えるのも、信じるのも、個人の自由です。 自分自身の、我が子の課題が、ずっと直らず、改善せず、むしろ現状維持もできていない、だからこそ、治るなんて嘘だ、と思いたいのはわからなくもありません。 でも、自分の見える範囲以外にも、事実があり、現実がある、という想像ができないのは、大問題だと思います。 というか、それでは人生、生きづらい。 というか、見える範囲がすべての人間、想像する力が乏しい人間には、人を育てることはできません。 できるのは、現状維持のみ。 最初から、他者の視点を想像できない人間には、育つも、発達も、治すも、生まれる余地がないのです。 「治る」に惹かれ、心から望む本人と親の自然な内面の動きが想像できず、あたかも「治るなんて現実的ではない言葉に騙された可哀想な人達」と捉えてしまう人。 その人が間違えているのは、他者の心情だけではなく、「治る」が甘い言葉だと捉えていることもです。 本人や親御さん、家族に...

障害者雇用の水増し問題で、まだ頭を下げていない人達がいるのでは?

なにか勘違いをされているのではないでしょうか。 確かに、障害者雇用の水増しはいけないこと。 でも、雇用する側ばかりが責められている論調には納得ができませんね。 水増しは表面の問題。 その下にある問題の根っこは、特別支援でしょ、ギョーカイでしょ。 「雇いたくないな」と思わせるような人ばかりを送り込んできたのは誰なのか。 それ早期発見だ、それ早期療育だ、と言って、発達障害を持った人達を囲いこんできたのは誰なのか。 「障害の特性に合わせた専門的な療育、支援を受ければ、自立するんです。彼らも働けるようになるんです」と言っていたのではないでしょうかね。 でも、実際は一般就労しても仕事が続けられないし、そもそも大学出るような人にまで福祉的就労を勧める始末。 何のため、10年も、20年も、療育や支援、服薬を続けてきたのでしょうか。 みんな、こうやって専門的な支援や教育を受けて頑張れば、きっと自立できる、仕事ができる、と思って歩まれてきたのだと思います。 それなのに、「一般就労?無理ですね。みんな、すぐに離職しますし。それより無理して二次障害になったらどうするんですか??」と言って、はい、終わり。 結局、一般就労して自立していく人達は、支援のおかげじゃなくて、本人と特に親御さんが頑張ってきたご家庭ですね。 知的障害、特性の重い軽い、早期から療育を受けたかどうか、職場の理解があるかどうか、そんなのは、自立や一般就労を左右するような要因にはなりません。 何よりも、本人が自立したいと願い、親御さんもそれに向けて、幼少期からしっかり育み、準備をされてきたかどうかが一番大きな要因です。 普通に考えて、「特別支援にお任せしておけば、将来、就職も、自立もさせてくれる」と思っているような人では無理に決まっています。 働くのは本人ですし、働く土台は、本人の身体だから。 利用してくれることで儲かる仕事の人達が、やすやすと手を離してくれるわけはありません。 それに、もう特別支援が始まって10年以上経つのですから、支援を受け続けてきた人達の中から自立できる人も、一般就労できる人も少ないという事実が明らかになっています。 そもそも特別支援、特別支援教育がうまくいっていたら、このたびのこれ程大きな水増しは起きなかったのではないでしょうか。 ですから、...

今を切り取った育みではなく、明日へ、未来へと続いていく育みを

開業当初から幼い子を持つ親御さんからの相談のほとんどが「言葉の遅れがあるんです」というものです。 「うちの子、なんか違うかも」という感覚は、みなさん、それよりずっと前に持たれています。 でも、「言葉が出ない」「同世代の子と比べて発語が遅れている」という我が子の姿、事実が、その違和感を確信へと変えるきっかけになっている場合が多いと感じます。 言葉の遅れが、親御さんを相談へと向かわせる一つの大きな出来事になるのは、今も、昔も変わりがないと思います。 相談や発達援助を依頼される親御さんの多くは、私のところに来る前に、公的な機関で相談、療育を受けられています。 当然、そこで言葉の発達が促されたなら、私のところに来るわけはないので、子どもさんや親御さんのニーズが満たされなかったということになります。 私の仕事は、発達のヌケを見つけ、言葉の遅れと繋がっている根っこを育て直すことですから、そういった公的な機関で、どのような相談や療育を受けたのか、敢えて知る必要がないものです。 しかし、どうしても話の展開として耳にすることになります。 もう最近では、なるべく聞かないようにしてるのですが…。 やっぱりここでも、時間が止まったまま、ずっと昔と同じことが繰り広げられています。 言葉が出ないから、たくさん話しかける、一音ずつゆっくり話すように促す。 まったくもって発達の視点が抜けた療育ですね。 言葉に課題があるから、言葉でどうにかしようとする。 これは誰にでもすぐに思いつくアイディアです。 そんなのは言われなくてもやっています、親御さんは。 一方で、「お母さん、気にし過ぎですよ」「男の子は、一人っ子は、そんなもんですよ」「成長は、一人ひとり違うから、焦らないで」という下手くそなカウンセリング。 そりゃあ、10年も、20年も前の世代の親御さん達には通用した手でしょうが、今の親御さん達はスマホで瞬時に情報を集めている世代ですよ。 相談機関に向かう前に、ネットで知識も、実際の子育て、当事者さんの様子も調べ尽くしている。 調べ尽くし、ヘタな支援者、相談員より情報と知識を持った親御さんに対し、気休めは通用しません。 ネットで得た情報と同じか、それ以下の支援者というのは、ただただ不信感を持たれるだけの存在になってしまうのが今の時代というもの。 こ...

そのエビデンスとは、科学なのか、宗教なのか

エビデンス原理主義の人達を見ると、どうしてそんなにエビデンスを気にするのかが、ずっと不思議でした。 多分、そのデータが意味するところよりも、宗教に近いんだろうな、と解釈していました。 そのエビデンスの元になる論文をしっかり読んでいる人はほとんどいないでしょうし、「誰それが言っているから」くらいなもんでしょ。 でも、ある本を読んでいて、それまでの私の解釈が違ったのかも、と思うことがありました。 多くの人は、「エビデンス=効果がある」と思っているのでは?と気が付いたのです。 学生時代、私は教育心理学が専門でした。 心理学ですから、統計についても学びます。 研究結果を評価するには統計学の知識が必要ですし、研究論文を読むのにも必要な知識です。 ちなみに卒論のテーマは、「生活習慣が心身の健康に及ぼす影響」というので、どういった生活習慣が、どのくらいの頻度から、心身へ影響を与えるのかを研究しました。 一言で言えば、生活習慣の中で、心身と関係があるものを探したのです。 こういった経験と知識は、就職してからも活かすことができ、いろんな「効果がある」と言われている療法の論文を読んで勉強することにつながりました。 今で言う「エビデンスのある療法」の元になった論文は、内容は違えど、学生が学ぶ基本的な統計学で進められたものがほとんどでした。 ですから、特定の介入と、介入後の変化の関連性を調べているのです。 とってもシンプルな表現をすれば、こうです。 Aという方法があります。 グループを二つに分けます。 1つのグループは何もしない、もう1つのグループはAという方法を行います。 結果、何もしないグループと、Aという方法を行ったグループに違いがあるのか?を調べます。 Aという方法を行ったグループに変化があって、それが偶然の違いじゃなければ(←ここで統計学)、じゃあ、Aという方法は、〇〇という効果があるよね、っていうこと。 私の卒業論文もそうでしたが、特定の方法や活動が、個人に変化を与えることは確かめられます。 でも、どうして変化が起きたのか、何が変化の元、理由なのかは分かっていないのです。 よくエビデンスが「科学的根拠」と表現されていますが、「全然科学的じゃないじゃん」「関係性があっただけしかわかってないじゃん」というもの少なくないのです...