【No.1167】大人の余裕が子の発達を保障する

昨年1年間で妊娠届があった件数が87万2227件で、これは前年比で4.8%減ということがわかりました。
計算すると、約4.4万人の命がこの世に生まれることができなかったといえます。
コロナは、長年、ガンで闘病していたとしても、家の中で倒れていたとしても、PCRでコロナウィルスが検出されれば、みんな、「コロナ死」になります。
で、そのコロナ死が1年間で4379人(2020/1/16~2021/1/15)。
天寿を全うできた人と、その機会すら与えられなかった人。
10倍以上違うこの差には、さらに多くの人数が隠されているのです。
生まれてきた子が親になると、また次の世代が生まれ、その次の世代が成長すると…、そのような想像ができると、4.4万人の新しい命の先にも、数え切れないくらいの命と未来があったわけです。


小学校生活が6年間あるのは、その6年間という時間の中でじっくり成長を促していこうという考えの表れだと思います。
「入学式のときは、大変でどうしようかと思ったのに、卒業式ではこんなに立派になって」
そんな言葉を見聞きしたことは一度や二度ではなかったはずです。
振り返れば、同級生の中にも、今なら診断がつく子がいたでしょう。
でも、そういう子も一緒に6年間学ぶ中で、いろいろな力を身につけ、それこそ発達のヌケや凸凹を育てていたのです。
教室から飛びだす子やすぐに手や足、口が出る子、勉強についていけない子もいましたが、先生はその都度、呼び戻してきて、勉強がわからない子にはフォローしていた姿が思いだされます。


それが近頃どうでしょうか。
こういった「自分が担任のときは、子ども達のために頑張る」「6年間でしっかり育ててみせる」という気概を持った先生はいなくなったのでしょうか。
以前は、課題がある子がいても、だいたい1学期の終わりや3学期の終わりなどに学校からの面談の申し込みがあったのに、今じゃあ、4月・5月の時点で、すぐに「専門家へ」「お薬は?」「支援級もありますよ」なんてことを言っています。
学校が率先して発達障害がある子ども達を区別し、分断しようとしているのがわかります。
年々、さじを投げるのが早くなりました。
「こういう取り組みや工夫をしたけれども、ダメだった」という話がなく、一方的に子どものできないことをあげつらうのは、教育ではなく、ただのダメ出しです。
ただのダメ出しが増えたのも、裏を返せば、「私達のせいではない」という保身と、婉曲的な「支援の世界へ」という促しだといえます。


人を育てるということは、時間がかかるということだと私は考えています。
特に発達に遅れやヌケがある子どもさん達は、就学のタイミングとその遅れやヌケが埋まるタイミングが合わないことが多々あります。
でも、それは当然で、小学校低学年くらいまでは神経発達が盛んな時期なのですから、まだまだ未熟なのが自然です。
未熟な年代の子ども達が入学する小学校で、育つ時間が待てないというのはどういうことかと思います。
教師が管理しやすい子だけを選び、教育するようになったら、日本の学校教育というか日本という国は終わりの始まりではないでしょうか。


小学校の就学に限らず、発達の遅れやヌケを育て直すには時間がかかりますので、タイミングのズレ、もっといえば、その時間を確保するための時間稼ぎが必要なわけです。
そういったときに必要なのが、その場しのぎの対処法です。
たとえば、見通しが持てるようになるまで、絵で描いたスケジュールを使ったり、言葉での注意では記憶に残らなければ、文字で気を付けることを箇条書きにしたり。
どうしても授業中、落ち着いて座ることができない子がいれば、休み時間の間に心拍数が上がる運動をしたり、補助の先生をお願いするのも良いと思います。
こうやって支援や補助を受けながら、根本的な課題である発達の遅れとヌケを育てていく。


しかし、どうでしょうか。
根本的な育ちがない支援や補助が溢れていませんか。
いつまで補助の先生をお願いするの?
いつまでご褒美シールを使い続けるの?
いつまで薬は飲み続けるの?
で、そのあからさまな姿が、学校側から提案される「専門家」「服薬」「支援級」だと思います。
普通級の先生からしたら、扱いにくい子を支援の世界へ送っているだけでしょ。
教え育てるというのが教育なのに、少しでも課題が見つかれば、「特別支援」という美名のもとに、教えもしないし、育てもしなくなる。


文部科学省は、社会のプレッシャーに押され、いろんな要素を学校教育の中に盛り込んできました。
それが現場の先生の余裕をうばい、結果的にじっくり育てるよりも、支援級へ、専門家へ丸投げという事態を招いているのだと思います。
ギョーカイのほうも、長年、親だけではなく、学校の先生も下に見る傾向が強かったので、ヘタに指導するくらいなら、専門家に任せろ、というメッセージを送り続けていました。
ですから、長期的な視点ではなく、「今日、うまくいくかいかないか?」で判断されてしまっている。
そうなると、6年間かけてじっくり成長していけば、ちゃんと育っていく子ども達も、排除分断の対象となってしまう。


昨年、花風社さんの主催で、栗本さんと対談、ご一緒させていただく機会がありました。
その際、栗本さんが「僕は、3代見て指導している」とおっしゃっていました。
子どもだけではなく、その子どもの子、そしてその次の代の子。
3代が元気で、やりたいことができる身体になって、初めてちゃんと指導ができたということになる、というお考えを伺いました。
私はその時、感動し、また自分の援助も、100年先を見据えたものに高めていかなければならないと思ったのでした。


子どもを育てるというのは、100年までは見なくても、年単位、5年、10年という長いスパンで見ていなかければならないと思います。
しかし、日本全体として、くだらない陽性者数の上がり下がりに一喜一憂するくらいの人間が多くなってしまったので、あらゆることに短期的な視点でしか捉えられなくなってしまっています。
まだ5月の段階で、どうしてもう普通級で学んでいくのが無理ってなっているの?
残りの5年10か月で、どれだけの多くの学びと成長があるのでしょう。
それを今、本人ではなく、担任又は学校が「無理」と感じ、その未来を切り捨てて良いのでしょうか。
支援級に行っても、同じだけの教育、機会が保障されているのなら良いですが、そこは考えていないと思います。


長年、発達の遅れ、ヌケがあった状態だったのですから、パッと1,2週間、取り組みを行ったからといって、ガラッと変わるわけはありません。
変わったとしても、それは表面的な変化です。
根っこから育てるというのは、それなりに時間がかかりますし、本当に育ったかどうかは、5年、10年とフォローして見続けないとわからないのです。
「治った」と思い、同年代と同じ生活の中に入っていった子も、思春期や親元を離れるタイミング、社会に出てから、実はまだ治っていなかったね、ということも少なくありません。
それこそ、私がお会いする親御さん達の中には、子どもさんの発達相談の機会に、ご自身の長年のヌケ、課題を知ることもあるのです。
自分しか自分の身体、感覚がわかりませんので、結婚して子ができて初めて気づく、自分の生きづらさ、不具合もある。


ですから、栗本さんがお話ししてくださった「三代を見る指導」は、その通りだと思います。
余裕がないと、短期的な視点、結果を求めてしまいがちなのは、人間の特性です。
ということは、子育てには余裕が必要で、その余裕は時間や環境などの物理的な面だけではなく、親御さん自身の身体、心を整えていくことでも、作られていくのだと思います。
現在の学校は余裕がありません。
余裕がないところに、余裕がない親御さんがぶつかると、短絡的な方向へと進んでしまいます。
なので、子が育つ時間を待てるようになるために、大人が心身を整える。
余裕があれば、余裕の無い学校からの言動に、しなやかに対処することができますので。




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