【No.1160】自由を守るための発達援助

大阪知事の顔を見たら、急に施設時代を思いだした。
あの目は、24時間寝ないで勤務している人間の目である。
見ているようで見ていない。
現実にいるようで、非現実の世界にいる。
そんな感じがする。
きっと眠れない日が続き、心身が限界に達しているのだろう。
そういった人間は、短期的な判断しかできず、だから今までの方針をガラッと変えたのだ、つい1ヶ月、2ヶ月前はいち早く緊急事態宣言を解除し、誇らしげな顔をしていたのに。
維新というのは、子育て世代と次世代をみた政策が方針だったと思うが、それをぶん投げ、いち早く子ども達から部活動と学校で学び合う権利を奪った。
これはコロナ騒動が終わったあとを考えると、維新の存在意義、政治家生命までをもぶっ壊す判断だったと思う。


スウェーデンは、国民の「移動の自由」「営業の自由」、そして何よりも子ども達の「教育を受ける権利」を守るために、緩和政策をとった国である。
当然、日本とは人口も、経済も、大きな違いがある国で、そのまま比べるわけにはいかないが、他国からとやかく言われようとも、ブレない方針には敬意を表する。
実際、強い強制力を働いた国と比べても、陽性者数は変わらないし、むしろ、少なく収まっているくらいである。
しかも医療崩壊すら起きていない。


こういったスウェーデンの背景には、死生観が強く影響しているといえる。
スウェーデンでは積極的な延命治療は行わない。
だから寝たきりの高齢者もほとんどいない。
自然のまま、それまでの生活、幸せを維持しながら静かに人生の幕を閉じていく。
彼らに言わせれば、管を何本もつなぎ、胃ろうまでして呼吸のみを維持させようとする状態は、虐待に見えるらしい。


今年、青いお祭りは開催されたのだろうか。
今の世の中、自閉症の"じ"の字も出てこない。
真っ先に子ども達の権利や学び、遊びが切り捨てられる日本において、さらにマイノリティーの特別支援の世界はほとんどの人が意識にすら上がってこない。
いま、「自閉症の理解を」と言って、誰が振り向いてくれるだろうか。
結局、この問題は身内が身内のために行っていたのである。
テレビなどのメディアで取り上げられたりすると、「社会全体が考えてくれている」と勝手に勘違いしていただけ。
あくまで一般の人たちからすれば、特別支援に関する問題は、「そうやってマイノリティ、弱者のことも考えられる自分」というファッションの一つなのだ。
飲食業を中心に中小企業をいじめ、自らの不安解消のために、他人の権利や自由を差し出す自分のことしか考えられない大人たちが多数なのだから。


スウェーデンのことを調べていると、先に挙げた管でつながれた高齢者のように、福祉施設そのものが虐待に見えるのではないか、と思う。
欧米と比べれば、さざ波程度の陽性者数で、厳しい面会禁止が行われ、一年以上も家族と会えない期間を過ごしている。
子どもの一年が尊いのと同じように、高齢者の一年も尊い。
「とにかくコロナだけでは死なせてはならない。他の病気ならいいけど」
そんな対応にも私にはみえる。
ご高齢の方たちにとって子どもや孫、友人と過ごすことはどれほど尊く、それ自体が豊かな時間になるのに。
高齢者の幸せと残り少なくなった時間は、名もなき施設職員によっていとも簡単に奪われる。


同じことは障害者施設でもいえるのではないだろうか。
いま、全国にある施設の中で、どれほどの施設が、利用者たちが「移動の自由」「営業の自由」「学ぶ自由」が守られているのだろう。
というか、これはコロナ騒動の前から指摘されていたことである。
彼らは自由に買い物や遊びに出かけることはできない。
移動介護を担当する職員の都合によって決められる。
特別支援学校を卒業した子は、それだけで就職の幅が狭くなる。
ましてや、就労支援を利用しようもんなら、福祉の枠から飛びだすことは難しくなる。
特別支援学級も、支援学校も、教科書すら配られないこともある。
小学校6年間、ずっとひらがなの練習なんてこともざらであり、中学、高校と進めば、「就労のために」といって教科学習の時間は減らされ、作業学習中心になっていく。


そう考えると、特別支援の世界は、ずっと非常事態なのかもしれない。
誰一人、彼らの権利や自由が奪われていることを訴えない。
しかも、保護者すらそれを望んでいるように、また自ら我が子の権利や自由を差し出しているようにも私には見える。
本当は彼らの学ぶ権利を主張すべきなのに、「社会に理解してほしい」、問題があれば「社会の理解」「支援者、先生の力が足りない」と外にのみ原因を見ようとする。
常に悪いのは自分以外の誰か。
まるで「気の弛み」と非科学的な感染理由を主張しているバカなコメンテーターと専門家のよう。
マスク警察は、「あのうちの子、療育やめたんだって」「普通級に転籍したんだって」「どうせ崩れて戻ってくる」と後ろ指さすママ友か。
衝立のみは、先取りアクリル板で良かったかも。


私は依頼があれば、全国どこへでも自由に移動し、仕事をしている。
子ども時代の、とくに神経発達が盛んな時期の時間はとても貴重である。
その時間をより良いものにするために、彼らの発達を守るためにできることを続けていこうと思う。
もし私が雇われの身なら、もし私自身が怖がりだったのなら、役割を果たすことができなかっただろう。
そして何よりも、今のように仕事の依頼は来なかったはずである。
この保身の国で商売をするには、「怖がりではない」ことが優位に働く。
この「怖がりではない」というのは、愛着の土台とリスクを判断できる感覚、そして選択と行動の主体である身体が育っていることが重要である。
これはそのまま発達援助の基本であり、発達障害の人たちがクリアすべき課題でもある。
まさに発達援助は子育てで、子育ては発達援助。


スウェーデンの死生観は、裏を返せば、よりよく主体的に自分の人生を歩むことの決意だといえる。
そのような決意がないから、その場しのぎに明け暮れる。
だから、一つの県が緊急事態宣言を要請すれば、「うちのところも」と自分のところの状況判断をすっ飛ばし他県が追随する。
特別支援も同じように、その場しのぎをしているから、問題の根っこが解決せず、時間と場所が変わってぶり返す。
結局、「今、落ち着くこと」「私が担当している間、問題が起きないこと」それがメインで進んでいるからだろう。


誰も、この子の将来の幸せについて語らない。
堂々と語られるのは悲観的な未来の姿である。
専門家と称される人たちも、こぞって「2週間後の日本はN.Y。3週間後はミラノ」「来月には目を覆うようなことになる」と言うように、「思春期になれば崩れ、二次障害を起こし、生涯支援を必要する」と不安を煽る。
なぜ、視覚支援しているのか、賞罰で行動を変容させているのか、絵に描いた餅で社会性を教えようとしているのか、誰も答えることができない。
だって、一方では自分たちで不安を煽っているから。


発達障害を治すのは目的ではない、治すのは子ども達に主体的に、より良い人生を歩んでほしいからだ。
平気で他人の自由と権利を奪う社会、大人から自分の人生を守るために。




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