治さない方が差別である

「治す」と言うと、「差別だ」と返してくる人がいる。
どうして“治す”と“差別”になるのだろうか。
むしろ、治さない方が差別だと思う。


だって、病気の人に、「病気は治しません」「病気のままでいてください」と言ったら、病人は病気のままでいればよいんだ、ということになる。
治る方法があるのだったら、治さなければ、それこそ、差別になるだろう。


このような不思議な言動が、特別支援の中では恥ずかしげもなく、堂々と市民権を得ている。
しかし、治すと差別は、私の中では結びつかない言葉。
だから、私は考えた。
そういう人達の“治す”という概念が、私とは、一般社会の人達とは異なるのだ、と気が付いた。


差別というのは、マイノリティーの人達に向けられることが多い。
また、マイノリティーという存在を否定することに差別が生じる。
そうか、彼らの指す“治す”というのは、存在の否定という意味合いを含んでいるのかもしれない。


「治す」「治る」状態とは、変わること、変化することを意味する。
しかし、変化することに、より良い方向へ変わることに、どうして否定が入るのか、最初はわからなかった。
変わることに、否定はいらない。
現状を起点とし、変化すればよいだけのこと。
つまり、現状との繋がり、今の姿、自分との繋がりの中で変化が生じる。
だが、彼らはどうも変わるには、現状の否定から出発せねばならない、または現状の否定、今の自分自身の否定を受け入れた先に、初めて一歩が踏み出せる、と考えているのかもしれないと思った。


「治すのは差別だ」「治るのは差別だ」と、わけのわからないことを言う人達の顔ぶれを見ると、「周囲から否定された子どもの頃の自分」を背負って生きている人が多いような印象を受ける。
子どもの頃はみな、親から、教師から、大人から、いろいろなことを言われる。
「あれがダメだ」「これがダメだ」「ここを治せ」と大人から言われるのは、子どもの日課のようなものである。


親子間でしっかり愛着形成がなされていれば、いちいち「あなたの存在を否定しているのではなく、その行為の過ちを、また将来、より良くなってほしいから、言っているのです」と言わなくても、子どもは察することができる。
しかし、愛着形成の段階に脆弱性があると、注意されることを自己否定と捉え、変わることを恐怖と感じる。


自分という存在が無条件に愛され、受け入れられるという実感を得られなかった子どもは、自分に投げかけられる言葉、一つ一つに反応し、背中を緊張させる。
だから、彼らは変わろうとしても、実際に変わったとしても、愛情を受け取れなかった、ありのままの自分を受け止めてくれなかったという経験から、反射的に変化することにネガティブな感情を懐いてしまう。


「変化することは、今の自分、過去の自分を否定することから始まる」と考えるのは、誤学習である。
変化には、否定は存在しない。
あるのは、過去の自分、今の自分から続く歩みだけである。


支援職というのは、目の前の人が変わることを援助する仕事である。
変化を促す人間が、変化に対し怯え、ネガティブな感情を懐くのであったら、それは役割を果たせないことになり、支援職失格を意味する。
よく「自分も同じような体験をしたから、気持ちがわかる」などと言って、支援職に就こうとする人間もいるが、そういう人は、共感すること、相手を無条件に受け入れることを仕事だと勘違いする。
ただ共感する、受け入れるだけだったら、ボランティアで良いし、身内や友だちで構わない。
支援職とは、変化を起こすプロのことであり、発達障害の人達と関わる者であれば、治る方向へ変化させること、治すことこそが仕事である。


「治すのは差別だ」と言う支援者は、治そうとする人に向けて、その言葉を発しているのではない。
本当は、子どもの頃、自分に変わることを促してきた大人に向けて叫んでいるのだ。
彼らは「治すのは差別だ」と言っているのではなく、「僕のことを否定しないで」「私のことをありのまま受け入れて欲しかった、ただ存在を認めて欲しかった」と言っているのだ。


支援職とは、このような歩み、基底欠損を抱えたまま大人になった者たちが集まる仕事でもある。
しかし、支援を求める人達は、より良い未来を求めているし、社会も現状維持ではなく、変化を求めている。
支援者の中には、子どもの頃の自分を支援している人間が少なくない。
だからこそ、「治すのは差別だ」という支援者に近づいてはいけないのだ。

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