構造化しただけでは、教育をしたことにはならない
「“構造化された支援”というのは、福祉と相性が良い」
そんな風に感じながら、福祉の世界で働いていました。
構造化された支援というのは簡単に言えば、情報を整理することで伝わりやすくし、その結果、混乱や誤解を防ぐもの。
人員が少ない福祉にとっては、一度用意しさえすれば、あとはそれを見て自分で動いてくれるというのは大助かりです。
たとえ、それがルーティンで動いていたとしても。
福祉職員にとって大変なのは、手が足りないことですから、問題行動のリスクを減らし、自分で動いてもらえる構造化された支援というのは、提供する側にとっても有難いツールになります。
ただし、福祉職員の大半は、福祉系の学校の出身者か、当事者の家族、「仕事を探していたら、たまたま。特に学歴、資格必要ないし」という人が多いので、同じ構造化を使い続ける、また構造化して一人で動いたらゴールという傾向がありますね。
教育的視点、成長や発達といった視点を持たないと、構造化された支援は、利用者をコントロールする道具に様変わりしてしまいます。
支援級でも、“構造化された支援”というのは、用いられています。
もちろん、学校内も刺激が多い場所ですから、情報を整理し、見通しを持って、落ち着いた一日が過ごせるというのは、とても大切なことです。
しかし、残念なことに、構造化した先の“学び”が見えてこない学級というのが存在します。
特に、福祉リードで構造化された支援を導入してきた当地では、子どもの学校生活に構造化を入れることに熱心な教員が多いのです。
そして、そのような福祉から学んだ教員が、今はベテランの位置にきていまして、中堅、若手に指導する立場となっています。
で、その本来の意味も分からず、せっせと構造化に勤しむ中堅、若手の教員たち。
こういうのが続きますと、いつの間にか、構造化された支援が教育活動だという誤った認識を育むことになります。
構造化された支援というのは、支援であって、教育ではありません。
約半世紀前の創始者も言っているように、構造化は準備であり、何の準備かと言うと、教育するための準備です。
つまり、より良い教育が行えるようにするための情報整理、環境の整備が中核なのです。
先ほど、お話ししたように当地は「福祉リード」の歴史があります。
ですから、支援級を見ると、どうも福祉施設の匂いがしますし、「これは自立や通常級を意識したものではなく、福祉施設に入るための、福祉施設に適応するための場所??」という印象を受けます。
一日学校に行って、教科学習の時間が10分だけ。
あとは自立課題をやって、余暇を過ごして、構造化された支援の使い方を練習…。
「学校で問題なく、落ち着いて過ごせたら、それでOK」みたいな価値観が根付いてしまっているのが、歯がゆくて仕方がありません。
「今日、学校で、どんなことを勉強してきたの?」と尋ねると、プリント1枚、算数の計算問題だけ、漢字練習だけ…。
これでは、同世代の子と差が開くばかりです。
自閉症、発達障害という診断名だった子が、中学生になる頃には知的障害が増える、なんて話は珍しくありません。
「通常学級で学ぶには困難がある。だから、個別級でその子に合わせて勉強」というようにベースが通常学級、教育にあるはずなのに、「通常学級で学ぶには困難がある。だから、勉強よりも、安定した学校生活が送れるように」と福祉ベースになっている現状。
なので、私は関わってきた子ども達は、みなさん、通常級のまま、通常級に転籍できるよう発達援助を行ってきました。
本来、ちゃんと学力がついて、成長できるのなら、通常級も、支援級でも、良いと考えていたのですが。
構造化したあと、「何を教えるか?」が重要です。
構造化して、「はあ~、一仕事終えた」ではいけません。
構造化しているだけでは、教育とは言えませんので。
当地だから、教室に構造化があるだけで見逃されているのかもしれませんが、朝から学校に行って、10分間、プリント1枚やって勉強おしまい、なんてあり得ませんよね。
お預かりで良ければ、福祉並みの人員、給料、予算、環境で良いはずです。
しっかり一人ひとりに合わせた学びが行われ、将来の自立に向かって成長してもらいたいから、教育予算というのは、福祉よりも多く、教育の中でも障害を持った子に厚くなっている。
福祉のように、一日平穏無事を教育が求めてはいけないと思います。
「構造化に力をいれなくても良いので、教科学習をしっかりやってください」
何度お願いしたか分かりません。
「あなたは、構造化して、この子に何を教えようとしているのですか?どんなことを学んでもらおうと考えているのですか?」
こういった私の問いかけに、ベテランの先生はムッとし、若手の先生はハッとされるのです。
そんな風に感じながら、福祉の世界で働いていました。
構造化された支援というのは簡単に言えば、情報を整理することで伝わりやすくし、その結果、混乱や誤解を防ぐもの。
人員が少ない福祉にとっては、一度用意しさえすれば、あとはそれを見て自分で動いてくれるというのは大助かりです。
たとえ、それがルーティンで動いていたとしても。
福祉職員にとって大変なのは、手が足りないことですから、問題行動のリスクを減らし、自分で動いてもらえる構造化された支援というのは、提供する側にとっても有難いツールになります。
ただし、福祉職員の大半は、福祉系の学校の出身者か、当事者の家族、「仕事を探していたら、たまたま。特に学歴、資格必要ないし」という人が多いので、同じ構造化を使い続ける、また構造化して一人で動いたらゴールという傾向がありますね。
教育的視点、成長や発達といった視点を持たないと、構造化された支援は、利用者をコントロールする道具に様変わりしてしまいます。
支援級でも、“構造化された支援”というのは、用いられています。
もちろん、学校内も刺激が多い場所ですから、情報を整理し、見通しを持って、落ち着いた一日が過ごせるというのは、とても大切なことです。
しかし、残念なことに、構造化した先の“学び”が見えてこない学級というのが存在します。
特に、福祉リードで構造化された支援を導入してきた当地では、子どもの学校生活に構造化を入れることに熱心な教員が多いのです。
そして、そのような福祉から学んだ教員が、今はベテランの位置にきていまして、中堅、若手に指導する立場となっています。
で、その本来の意味も分からず、せっせと構造化に勤しむ中堅、若手の教員たち。
こういうのが続きますと、いつの間にか、構造化された支援が教育活動だという誤った認識を育むことになります。
構造化された支援というのは、支援であって、教育ではありません。
約半世紀前の創始者も言っているように、構造化は準備であり、何の準備かと言うと、教育するための準備です。
つまり、より良い教育が行えるようにするための情報整理、環境の整備が中核なのです。
先ほど、お話ししたように当地は「福祉リード」の歴史があります。
ですから、支援級を見ると、どうも福祉施設の匂いがしますし、「これは自立や通常級を意識したものではなく、福祉施設に入るための、福祉施設に適応するための場所??」という印象を受けます。
一日学校に行って、教科学習の時間が10分だけ。
あとは自立課題をやって、余暇を過ごして、構造化された支援の使い方を練習…。
「学校で問題なく、落ち着いて過ごせたら、それでOK」みたいな価値観が根付いてしまっているのが、歯がゆくて仕方がありません。
「今日、学校で、どんなことを勉強してきたの?」と尋ねると、プリント1枚、算数の計算問題だけ、漢字練習だけ…。
これでは、同世代の子と差が開くばかりです。
自閉症、発達障害という診断名だった子が、中学生になる頃には知的障害が増える、なんて話は珍しくありません。
「通常学級で学ぶには困難がある。だから、個別級でその子に合わせて勉強」というようにベースが通常学級、教育にあるはずなのに、「通常学級で学ぶには困難がある。だから、勉強よりも、安定した学校生活が送れるように」と福祉ベースになっている現状。
なので、私は関わってきた子ども達は、みなさん、通常級のまま、通常級に転籍できるよう発達援助を行ってきました。
本来、ちゃんと学力がついて、成長できるのなら、通常級も、支援級でも、良いと考えていたのですが。
構造化したあと、「何を教えるか?」が重要です。
構造化して、「はあ~、一仕事終えた」ではいけません。
構造化しているだけでは、教育とは言えませんので。
当地だから、教室に構造化があるだけで見逃されているのかもしれませんが、朝から学校に行って、10分間、プリント1枚やって勉強おしまい、なんてあり得ませんよね。
お預かりで良ければ、福祉並みの人員、給料、予算、環境で良いはずです。
しっかり一人ひとりに合わせた学びが行われ、将来の自立に向かって成長してもらいたいから、教育予算というのは、福祉よりも多く、教育の中でも障害を持った子に厚くなっている。
福祉のように、一日平穏無事を教育が求めてはいけないと思います。
「構造化に力をいれなくても良いので、教科学習をしっかりやってください」
何度お願いしたか分かりません。
「あなたは、構造化して、この子に何を教えようとしているのですか?どんなことを学んでもらおうと考えているのですか?」
こういった私の問いかけに、ベテランの先生はムッとし、若手の先生はハッとされるのです。
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