旧友に再会したような感覚になれる支援者

将来、私が支援に携わっていた人と再会したとき、その人が"子ども時代の友人"にでも会ったような感覚になる支援者になるのが理想です。
「私が大変お世話になった人です」なんて言ってほしくないし、私の支援を必要としなくなった時点で、私のことなんてすぐに忘れてもらって構わないです。
それよりも、しっかり前を向き、幸せを自分の手で掴むことに集中してほしいと思っています。

支援者なんて、踏み台みたいな存在で良いと思っています。
その人が次のステップへ進んでいければ、それでいい。
今まで見えなかった世界が見えるようになったのなら、その人の後姿を見ればよいのです。
何も、「私も一緒に次の世界についていきます」みたいにする必要はない。

本人が人生を歩いている途中で、
「そう言えば、自分の足でしっかり歩けるようになっているな」
「転んだら起き上がれなかったのに、自分で立ち上がって歩き始めることができているな」
と感じるような"色の残らない支援"が理想です。
その人の人生は、その人以外、歩くことはできません。
ですから、「〇〇のお蔭で歩くことができている」と思うよりは、「自分の足で歩けている」と思ってもらう方が、より主体的に、より積極的に、より豊かに歩んでもらえるのだと考えています。
自分の足で歩いているという実感が持てているのなら、歩む道も、スピードも、自分で決めることができます。

本人が「自分の足で歩いているかも」という気持ちを持ってもらうまでが、大事な支援だと思っています。
そのために、自分の特徴、心身の整え方、自分に合った学び方、不安定になる環境とその前兆、対処方法を学んでいくのです。
私は「もう支援はいりません」と、本人の口から聞けることが最大の喜びであり、その言葉を聞くために頑張っているといっても過言ではない。
どんどん私のことを踏み台にして、空高く飛び立ち、今まで見えなかった世界を見て欲しい。
私の願いは、ただそれだけ。

こんな考えだから、「ずっとあなたの支援者であり続けたい」みたいな支援者の気持ちは、まったく分かりません。
だって、その人の代わりに人生を歩むことはできないから。
だって、その人のことを一生支援できるわけではないから。
結局、こういう支援者は、ただ支援している"自分"が好きなのであり、商売的に支援を必要としなくなったら困る人なだけ。
「自閉症は一生治らない」を、「だから、一生支援が必要で、ずっと支援し続けます」という自分たちに都合よく解釈してしまっている。

てらっこ塾も3年目になり、そして季節も秋になり、実りの季節になった気がします。
私の支援を離れ、次のステージへと歩みだしている人たちが何人も出てきています。
私は支援の依頼を受けたその瞬間から、どうやって私の支援をフェードアウトしていくかを想像します。
私の支援のゴールは、私の支援がなくても、自分自身で学び、成長できる姿まで手助けすることです。

飛び立っていった皆さん、新しい世界の景色はいかがですか?
私のことを記憶しておくスペースが脳みそにあるのでしたら、そこを空けて新しい学びを入れてください。
そして、今度出会うときは、支援者としてではなく、古い友人としてお会いしましょう!

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