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融資詐欺に遭いそうになった自閉症の学生さん

差出人が書かれていない封書が届いたら、「あれっ…」と思いますよね。 ポストに入っていた息子宛に届いた差出人のない封筒を見て、親御さんは嫌な予感がしたそうです。 その嫌な予感は現実のものとなります。 次の日、息子さんの部屋の机の上に、先ほどの封書が封が開いた状態で無造作に置かれていました。 横には手紙も一緒に。 折れ曲がった手紙の隙間から見えた文字に、親御さんは血の気が引きます。 「ご融資に関する審査が通りました」という赤色で書かれた文字に…。 帰宅した息子さんに、「お金が足りなくて困っていないか」「お金を借りたりしていないか」などと、訊いたそうです。 でも、返事は「困っていない」「借りていない」と一点張り。 夜も遅かったので、そのまま翌日を迎えたのでした。 翌日は運の悪いことに(?)、私の訪問日。 家の扉を開けると、別室に通され、親御さんから、かくかくしかじかと説明を受けました。 メモしていたという手紙に記されていた携帯の番号をネットで検索。 被害にあった人のサイトがひっかかり、闇金業者と判明。 予定していた勉強の内容は、急遽、差し替え決定で、ここから、長い話し合いが始まるのでした。 昨晩の親御さんからの投げかけに、マズイと察したのでしょう。 当然、私が尋ねても、「知らない」「わからない」の連続です。 いやいや、眼が泳いでるし、多弁になってるし、耳が真っ赤だし、話の辻褄があっていないよ、と心の中で思いましたが、そこは我慢我慢。 本人が言いたくないのならと、「学生を狙った詐欺が流行っているから、それについて勉強しよう」と、いつものような流れへと進めました。 「差出人が書かれていない封筒が来たら、どう思う?」という質問に、「差出人を書き忘れたかもしれない」「封筒の中に、差出人が書かれているかもしれない」という答え。 知人同士の手紙だったら、差出人の書き忘れはあるかもしれないけれど、企業だったらあり得ない話。 一般的に企業は何らかのやりとりをしたいために手紙を送るはずだから、自分たちの連絡先を書かないわけがない。 差出人が書いていないのなら、知られたくない理由があると想像する必要があるし、もし詐欺ではない企業であっても、差出人を書き忘れるような企業だったら、信頼できない企業でしょ、と説明。 すると、「封筒を見て、そんな...

“敵”の存在が必要な支援者

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都知事選の圧勝は、「敵を作るのがうまかった」と解説している人がいました。 当選した小池氏も、敵がいることをパワーに変える人らしいです。 まあ、都民ではない我々から見れば、他の有力(?)候補の自爆が大きかったと客観的には思いますが。 先日、この“敵”に関連して面白い話を聞きました。 障害を持った人達を支援している人の中には、自分から見て「立場の弱い人」「困っている人」「かわいそうな人」を支援することにより、満たされていない自分の気持ちを埋めようとしている人がいるように感じます。 特に「自分が必要とされている感」を求めてってやつですね。 いつも障害を持った人達を自分の周りに集めて、「私って必要とされているよね」って確認している支援者。 私が嫌いなタイプの支援者なんですが、この人には「立場の弱い人」「困っている人」「かわいそうな人」以外にも必要なものがあるそうなんです。 それは“敵”。 「立場の弱い人」「困っている人」「かわいそうな人」をいじめる存在です。 自分が必要とされている感を得たいのなら、こういった人達をただ支援していればよいと思うのですが、話をしてくれた人は「それでは足りない」と言います。 「自分が必要とされている感」を求めている人は、自分より恵まれている人、幸せな人には興味がありません。 つまり、自分が支援している人には、無意識に「幸せになってほしくない」「不幸のままでいてほしい」という気持ちがあるそうです、もちろん、口ではそうは言いませんが。 かわいそうな人をかわいそうなままの存在にしてくれる“敵”が必要なんですね。 自分が支援している人を不幸のままにしてくれる“敵”の存在。 自分と自分が支援している人にとって強い結びつきをもたらしてくれる共通の“敵”の存在。 「〇〇ってヤツは、本当に悪いヤツだ。だから、〇〇に負けないよう一緒に頑張ろう」っていうのですね。 思い返してみれば、「自分が必要とされている感」を求めて支援している人って、いつまで経っても本人たちが自立していかないんですよ。 私は、例え「自分が必要とされている感」を求めての支援だったとしても、それが原動力になり、本人たちが成長し、自立していけば良いと考えていたんですがね。 そもそも深層心理では「自分から自立してほしくない」と思っているのでは、成長&自立してい...

「入所施設はいらない」と言うのは、きれいごとでしかない!

タイトルの通りだと、私は思いますね。 よく施設関係で問題が起きると、「施設をなくせ」「施設は悪だ」みたいなことを言う人がいますが、あなた達に何が分かるんだと言いたいですね。 だって、実際に施設を利用し、生活している人達がいるんですよ。 施設だって、彼らの選択肢の一つじゃないんですかね。 「地域で暮らす」みたいな頓珍漢なことを言う人もいますが、施設だって地域ですよ。 確かに郊外に存在していることが多いですが。 そこだって、1つの地域です。 施設があるから、成り立っている経済活動だってあるんだし。 都市部で生活したい人もいれば、郊外の静かな場所で生活したい人もいる。 ある強度行動障害で入所してきた男の子は、都市部で生活していましたが、ずっと家の自分の部屋で生活していました。 小さいときは、公園やコンビニが好きで、よく出かけていたそうですが、行動障害がひどくなり、外に連れていけなくなったんです。 その子が郊外の施設にやってきた。 もちろん、近くにコンビニなどはありませんが、その地域のちっちゃい商店に好きだった買い物に行くことができた、それも数年ぶりに。 公園だって、他に子どもがいない時間にたくさん遊ぶことができた。 コンビニや商業施設がない郊外での生活を「かわいそう」と言う人がいるけれど、数年ぶりに買い物に出かけて、好きなおやつが買えた、公園で思いっきり全身で遊べた、というのは、都市部で部屋の中から出れなかった生活よりも豊かになったと言えないでしょうか。 他にも、都市部や町などで刺激が多い中で生活していた人が、刺激の少ない郊外の施設に来ただけで安定したってことも少なくありません。 確かに、本人のニーズではなく、保護者のニーズで入所してきた人もいます。 いろんな理由をくっつけますが、結局は「家でみたくない」って人も少なくありません。 地域の目を気にしたり、障害を持った子がいることが知られたくないって理由だってあります。 お金が入るときだけ面会に来る人もいますし、何年間も面会に来ない人なんて、ざらにいます。 ということは、入所施設がなくならない理由には、親のニーズだってあるんですね。 もし入所施設が閉鎖になったらどうなりますか? 住んでいた人達は、その日から家に帰ることができますか? 自分の住んでいるところの隣に、行動障害を持...

相模原市の事件を止められたかもしれないもう一つのタイミング

昨日、起きた前代未聞の事件。 もちろん、相模原市の障害者施設で起きた事件である。 当然、様々な感情が湧きおこってくる。 昨日は一日、私の心もざわついていた。 だが、こういった事件が二度と起こらないように“考える”ことも大事だと思う。 措置入院の治療、12日で退院した是非、医療や行政間での情報の共有、市や警察の動きなど、犯行を防げたかもしれないという場面が、いくつか言われている。 しかし、私はもう一つ大事な場面があると考えている。 それは、容疑者が働いていたときである。 最初、強度行動障害を持った人達の生活支援を3年半も続けていたことに“珍しい”と感じた。 特に若い人は、すぐに辞めていくことが多かったので。 報道によれば、働いた当初より入居者に対する暴力や暴言があったという。 また学生時代から、障害者の存在を否定するような発言をしていたとのこと。 ということは、働いた当初より行動でも、考え方でも、施設職員として不適切だったといえる。 それなのに3年半もの間、働き続けていたこと、別の言い方をすれば、辞めさせられていなかったことに疑問を持たなければならないと思う。 何故、このような問題があった職員が、3年半もの間、働き続けられたのか? 近年、障害者虐待に対する社会の目も、法律的にも、厳しくなっているのに。 辞めさせたくても辞めさせられない事情があったと想像する。 この施設は、重複障害の方、重度最重度の知的障害の方、強度行動障害の方を積極的に受け入れていたという。 ということは、職員の入れ変わりは多く、人材不足に陥っていたと想像できる。 特に若い男性職員は重宝される。 自傷や他害、パニック時の対応は、力が必要なことが多いため。 状況や状態の悪化、周囲への被害を考えると、きれいごとなど言ってられないこともある。 給料の面からも、若い職員で男性は集まりづらいので、辞めさせたくても辞めさせられなかったのではないだろうか。 また、暴力や暴言、考え方など、一般の人達が感じる衝撃、違和感と、職員同士、施設内での感じ方にギャップがあったのではないかと推測する。 先ほど述べたように、職員も身の危険を感じることは多々あるし、力で止めないといけない場合もある。 精神的にも、肉体的にも、金銭的にも、キツイ仕事である。 それを続けていく間...

支援対象はモルモットではない

新人の頃、支援を始めるときには1つずつ「変える」「加える」「減らす」という指導を受けました。 その理由としては、「自閉症の人は変化が苦手だから」という意味で少しずつ変えていくというのと、複数変えちゃうと結果がどの影響かがわからなくなるから。 当時も思っていたのですが、変化が苦手だったら一気に変えちゃった方が良い場合もありますね。 ちょびちょび変えて、“変化のボディーブロー”の方が辛い気がするし。 そして、複数変えちゃうと、何の影響かがわからないっていうのも、ツッコミどころがありますね。 これって支援者目線です。 本人からしたら、トラブルが起きていれば、すぐに解決したいし、ラクになりたい。 何か新しいスキルを身に付けるにしても、できるだけ早いほうが、実生活で活かせる。 つまり、本人にとって手段よりも、結果が大事なんですね。 結果が大事なのは本人で、手段が大事なのは支援者。 なんで支援者が手段が大事かって言ったら、100%ではないにしても“モルモット”として見ているから。 新しい方法を試したいし、臨床数を増やしたい。 それの方が、仕事上の自分の結果は良くなるから(ブ) 精神科のドクターが1つずつ慎重に薬を変えていくっていうのはわかりますね。 でも、支援はスピーディーに結果を出すのが良いに決まってます。 「この構造化が…」「このプロンプトが…」「この介入のタイミングが…」「この強化子が…」なんて支援者の中での話であって、本人からしたら「それよりも早くしてよね」なんですね。 トレーニングを受けたときも、「日本の支援者は、すべて1つずつ変えるのか!?」って驚いていましたよ。 日本の自閉症、発達障害の入り口は、必ず医者を通らなくてはいけないからでしょうかね。 まあ、原因、要因を確認するのは、本人の情報を集める上では大事なのかもしれませんが、いくらアセスメントシートを用意しても、すべての要因を書き出すことはできませんからね。 一言で体調といっても、睡眠、排泄、食事、疲労…ってあるし、過去の経験っていっても、数えきれないくらいある。 環境だって同じ。 どうせ要因なんか特定できないんだから、そのとき、目的達成のために有効だと思われることをどんどんやったら良いと思うんですよ。 やりやすいことからでも、改善しやすいことからでも、どんどんや...

両親の監督責任が問われた裁判

「両親は監督義務を怠った」というのが、東京地裁が出した答えでした。 2013年、当時小学2年生だった女児が、上級生の女児から脅され、マンションの屋上から飛び降り、重傷を負った事件。 その加害者の家族に対し損害賠償を求めた裁判で、慰謝料など1,025万円の支払いを命じる判決が昨日、言い渡されました。 この判決に関しては、今朝の新聞やネットニュースの記事で読みました。 しかし、その伝え方に違和感を持ったんですね。 やっぱり「発達障害」「アスペルガー」っていう部分を削ってるんですよね。 紙面の関係かもしれませんが。 でも、昨日の判決の肝は、加害者の両親に監督責任を認めたこと。 裁判長の判決理由でも、発達障害の診断を受けた点、他者が思い通りに動かないと怒りを持つという傾向について述べられていましたね。 だったら、きちんと伝えるべきだと思います。 「他者が思い通りに…」っていうことだけ記してあって、発達障害の部分がなかった記事もありました。 また加害者の女児が聴覚障害を持っていた点は書いてあったのに、発達障害は書いていないのも。 聴覚障害は良くて、発達障害はダメな理由は?って思いますね。 ギョーカイ団体の力の差?? このようにギョーカイのプレッシャーなのか、自主規制なのかはわかりませんが、私は事実をきちんと伝える必要があると思います。 それは今、どこかで被害に遭っている人達のために。 我慢する必要はないんです、加害者に障害があったって。 学校とかでも、何かトラブルがあっても「あの子には障害があって…」みたいな対応されて、共生という名の元に被害児が我慢するし、加害者の方の保護者には曖昧に伝えられる。 また同じ障害を持った子同士でも、「お互い様」といってうやむやにされる。 こんなこと、どこでもある話です。 今回は、加害者の年齢と障害が考慮され、本人の責任は問われませんでしたが、はっきりと親の責任が認められています。 つまり、相手に障害があったとしても、被害を受けた側は被害者になるのです。 当然といえば、当然なのですが、それを認めようとしない人達がいます。 健常者から障害者に対する虐待や差別は大騒ぎするのに、立場が逆になる場合はだんまり、または「偏見がー」を続ける人達です。 でも、この人達がいくら頑張ろうとも、被害を受けた人が被...

新しい問題が出てきたのは、発達の階段を1つ上ったからかもしれない

様子を見ていると、「あれっ、今までなかった問題が出てきたぞ」ということがあると思います。 環境や対応、ルールの変化で新しい行動が出てくる、できていたことができなくなるということではなくて。 「特に変化や変更はなかったのに、おかしいな」というケースです。 私も関わっている人で、子どもも、大人も関係なく、「新しい課題がでてきたな」って感じることがあります。 これって、せっかく落ち着いていたのに~、安定してたのに~って捉えがちなんですが、ネガティブなことだけとは限らないんです。 むしろ良い兆しだったりする。 「その前段階の課題がクリアされたから出てきた課題」 「心身が安定したから出てきたそれまで抑圧されていた課題」 ってこともあるように感じます。 ポジティブな課題っていうのもある、と私は考えています。 それまでできなかったことができるようになって、その分、認知や身体機能が高まって出てくる課題があったり、精神疾患の症状が良くなってから出てくる課題があったり。 新しい行動を起こすにもスキルが必要ですし、心身のパワーが必要ですから。 このような背景のある新しい課題が出てきた人の場合、新たな段階へ進む準備ができた証拠と捉えるようにしてます。 一つの課題がクリアされたら、次の課題が出てくる。 これって自然なことだと思います。 新たな問題が起きれば、モグラたたきのように、上から押しつけようとする支援者って嫌ですね。 もっとその人の成長、発達という観点で見れないかなと思います。 「新しい問題が起きました」→「はい、精神科薬追加」 「新しい問題が起きました」→「はい、やらなかったら、ご褒美。はい、消去」 「新しい問題が起きました」→「はい、×マーク&衝立」 っていうのは、本当の意味で発達援助と言えるの!?って感じですね。 その瞬間で判断するのではなく、「発達の階段どの位置かな?」っていう視点が大事ではないでしょうか。 新たな問題が出てきたとき、「もしかしたら次の発達課題に取り組み始めたのかもしれませんね」と言うようにしています。