【No.1510】概念の呪縛

この前の発達相談で、お母さんが「自閉症じゃなくなるとき」って言ってたんだよね。
このフレーズを聞いた瞬間、「このお母さん、おうちは大丈夫」って思ったね。
一人の人間、我が子、〇〇くんがいて、その子には自閉症の部分、瞬間もあれば、同年代の子と同じ部分、普通の子になるときもある。
どんな子も、朝から晩まで自閉症ってことはないよね。
ふと、普通の子、素の自分に変える瞬間がある、というのを掴めているかどうかって、とても大きなことだと思う。


障害名、たとえば『自閉症』というのはただの概念。
ここからここまでは自閉症で、ここからは自閉症じゃない、って人為的に分けて、便宜上、共通した名前を付けているに過ぎない。
その名前自体にはなんの意味もないんだけど、その名前に振り回されている人がほとんどじゃないかな。
自閉があるから情緒学級とか、自閉症だから視覚支援しなきゃとか、自閉症だからこだわりがあるもんだとか、ね。
『自閉症』という言葉のほうに、現実の生活が引っ張られるなんておかしいと思わない?
「自閉症の子は二次障害になりやすい」というドクターに、「“自閉症の子が二次障害”はわかったんですけど、うちの子はどうなんですか?二次障害になるんですか?それは決定事項ですか?」って訊ける親御さんが増えてほしいよね。


時々、「この子は自閉症で」「この子に知的な遅れがあって」「重度の知的障害があって」という親御さんがいます。
もちろん、本人は聞いていない、聞こえていても言葉の内容、意味までは分からない、という前提なんだけど、どの子もわかっちゃうよね、確実に。
行動としてその場を離れたり、ひきこもったり。
葛藤の意味で邪気が出たり、気が淀んだり。
彼らから伝わってくるのは、「そんな風にかあさんも、レッテル張りをするんだね」という声。
丸ごと、全体として自分が見られているんじゃない哀しさだね。


あと話はずれるけど、「自閉症」とか、「知的障害」とか子どもの前で言うと、その子はその枠から抜け出せなくなることがあるから注意したほうがいいね。
「知的障害がある自分」がその子の認識となって、その範囲内で成長を収めようとするから。
「アプローチ、取り組み、本人の能力から考えて伸びが少ないな」と感じるおうちは、親御さんだったり、祖父母だったり、きょうだいだったりが、日ごろからその言葉を使っていることもある。
本人の前でそういった言葉を使わなくなったら、とくに取り組みを変えたわけじゃないんだけど、そこからちょっとして成長が伸びやかになったというケースもありましたよ。


施設でともに生活していた自閉症、知的障害、強度行動障害の子ども達も、普通の子に戻る瞬間があったよ。
つい数時間前までは暴れまくっていたのに、落ち着きを取り戻してからのふとした瞬間、その年代らしい柔和で自然な表情やしぐさ、行動が出たりね。
一緒に遊ぼうと甘えてきたり。
だけど、また少し経つと、うーと唸って自室の隅で常同的な運動を始める、みたいなのは当たり前だった。


「こだわり」といわれるような固執的な行動がある。
だけど、固執的な行動をしている時間としてない時間があるわけでしょ。
していない時間は、その子の素の部分、その子本来の姿と見るようにしてみるといいね。
またその固執も、今日やるのと、昨日やるの、明日やるのは細かく見れば違うはずです。
昨日の固執があって、今日の固執がある。
その間には微妙だけど違いがある。
そう考えると、ただ自閉症の人に多く見られる『固執行動』じゃなくて、その子の昨日と今日は違うバラエティーのある『固執行動』に変わるよね。


そうやってどんどん細かく見る癖をつけることによって、実際にそうすることによって概念の呪縛から抜け出すことができる。
『便宜上の概念』と『障害を固定する概念』『成長の枠を決める概念』からね。
あまりにも「自閉症」「自閉症」言う人を見たら、「この人がやっているのは昆虫採集に近いんだろうな」と思ったほうがいいよ。
見ているのは「共通する部分がどこだろか」だからね。
捕まえられて、標本の一つとして額物の中にピン留めされる前に逃げなきゃ。
「標本を育てよう」とは思わないよね。



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