「頑張り続けることに疲れました…」

「ずっと頑張り続けることに疲れました」
このような相談を受けることが少なくありません。
不登校やひきこもりの方に多いですね。
また親御さんでも、同じようなことを言う方がいます。


そもそも頑張るのは、自分のためですから疲れれば休んで、元気になったら再び頑張ればいい。
そこに自分の意思があるはずです。
何か目標達成のために、自分の未来を変えるために頑張るのは、心地良い疲れを運んできてくれると思います。
でも、どうも心地良く感じていない、それが辛さとつながっている。
ということは、自分のためではなく、他人のために頑張っている。


その他人が、一番近く、愛情が欲しい人なのは想像するのも難しくないと思います。
頑張る、頑張らないにかかわらず、存在をそのまま受け止めてもらった感覚に乏しい人は、このように頑張る姿を見せることで認めてもらおうと、もがきます。
そのもがき続けることに疲れたというのが、頑張り続けることに辛さを感じている人だといえます。
よく彼らは言います。
「頑張れない、頑張っていない今の状態の自分には価値がない」と。


本人側の背景として、発達の遅れやヌケがあったために、うまく愛着が育っていかなかった、そこにもヌケがあるという場合もあります。
でも、そういった子の親御さんを見ると、「それ何の役に立つの??」みたいな民間の資格を取ったり、ナントカコーディネーターと名乗っていたり、ギョーカイ活動に熱心だったりする。
「私達も輝かなくっちゃ」「輝いている私を見て見て」と言って、Facebookにキラキラ、モリモリ写真をあげているタイプ。
そういうときに、私は思うんです。
あー、親御さん自体が心の底に寒々しさを抱えているのねって。


今でにも、いろいろな方に紹介したり、プレゼントしたりしたのが、花風社さんから出版された『愛着障害は治りますか?』です(kindle版も出ました!)。
この本を読んでから、改めて過去を振り返ってみると、愛着形成に課題を抱えた人が多かったこと、そして今も出会う方達の中に多くこういった課題を持っている人が多いことに気が付きます。
自分を高めるために、またその知識、技能をひと様に活かすために、いろんな資格を習得される方もたくさんいると思います。
でも、そういった人達の中に、頑張ることで自分の存在を確かめている人がいることを感じます。
自分自身のために資格を取り、「私を見て見て」という姿に、自分の寂しさを隠すように高価な物、派手なもので着飾る姿が重なります。


本来、ボランティア活動とは、自分に満たされ感があり、自分に心身の余裕がある人が行うものだと思います。
だけれども、ボランティアをする人自体が苦しそうだったり、援助が必要な状況だったりする人がいます。
誰でも他人から認めてもらうことは嬉しいことではありますが、それが目的でボランティアに従事するのは、それも一種の自己治療なのでしょう。
「嫌だ嫌だ」と言いながらも、講演会のサクラになったり、青いお祭りのボランティアを続けたりするのは、それによって満たしたい何かがあるから。
正直、ボランティアする前に、もっと我が子と向き合った方が良いはずです、という方が少なくありません。
ある親御さんは、「青い光を見ると、現実逃避できるのかな(ブ)」と言っていました。


「頑張り続けないと自分の存在価値がない」と思いながら生きるとは、どんなに生きづらいことかと思います。
それでは疲れ果てて、成長云々以前に、生活するだけで辛いことでしょう。
だからこそ、愛着についても治していく必要があるのだと思います。
で、下手くそな支援者は、「頑張らなくて良いんだよ」「あなたが生きているだけで素晴らしい」とやっちゃうから、何も育たず、変わらず、生きづらいまま。


「ありのままを受け入れる」というのは、主語が親でも、支援者でもありません。
「ありのままでも存在していいんだ」という感覚を本人が持てること、そこまで育つことだと思います。
子育てに悩み、苦しむ親御さんがいるのは、子の成長がわからない、先が見えないだけではなく、「頑張り続けないと、母親として、いや自分自身の存在価値が掴めないから」というのもあると思います。


頑張り続けることに疲れた子のそばに、自分自身を認め、受け止めて欲しい親がいる。
そして弱い立場の人を利用し、自分自身が必要とされることで、愛着不全を治療している支援者がいる。
問題の長期化の背景には、このような三者三様の寒々しさが隠れていることが少なくないと思います。

コメント

このブログの人気の投稿

【No.1358】体軸が育つ前の子と、育った後の子

【No.1364】『療育整体』を読んで

【No.1370】それを対症療法にするか、根本療法にするかは、受け手側の問題