障害は不便なもの
「私は障害があった自分で、良かったと思うんです」
「この障害があったおかげで、幸せになれたんです」
と言う当事者の人がいます。
でも、「この人は、心の底から、本心で言っているな」と感じる人には出会ったことがありません。
自分自身を騙すのに精一杯、そう言い聞かせることで保っている、そんな雰囲気を感じます。
その発言と実生活のギャップから負け惜しみに聞こえることもあります。
上記と同じような発言に「障害は不便だけれど、不幸ではない」というものがあります。
こちらの発言には、私も共感することができます。
学生として、施設職員として、教員として、支援者として、障害を持った人達と関わり、不幸な人達だとは思ったことがありません。
しかし、いつも障害とは彼らの生活を不便にするものだと思っていました。
障害があろうがなかろうが、幸せな人もいれば、不幸な人もいる。
だけれども、障害があることで確実に言えることは、そこに不便さがある、ということだと私は考えるのです。
「障害は不便なもの」と捉えているからこそ、私はその不便さを取りたい、と思います。
だから、その不便さを取る方法、治すという方向へと歩んでいます。
本人にも、親御さんにも、育て直し、発達を頑張ってもらうのは、不便さを治したいから。
不便さが治ったあと、何を学び、何を選択し、どう生きていくか、幸せを掴むかどうかは、それこそ障害に関係なく、個人にかかっているのです。
「障害を克服する」ですとか、「障害がある子が頑張る」ですとか、そういうのにネガティブな反応を見せる人達がいますが、私には理解ができません。
不便さを克服するために努力したり、頑張ったりすることのどこがいけないことなのでしょう。
「障害を持った人を頑張らせるのは、かわいそうだ」と言う人もいますが、不便なままで生きろ、という方がよっぽどかわいそうなことだと思います。
「障害があるのだから、周りが理解し、社会が変わることが大事」という主張をする人も多いですが、それだと本人の内側にある不便さは、一向に解消されません。
「障害は本人の内側にあるのではなく、社会との間にあるのだ」と言いますが、過敏性も、疲れやすさも、無意識な動きが難しいのも、社会がどうなろうが変化はないでしょう。
発達の遅れやヌケは、完全に個人の課題だといえます。
個人の課題を解消するのは、社会でも、理解でもありません。
青色の建物をいくら見ても、睡眠障害は治らないのです。
このように考えると、障害があることで、「良かった」「幸せになった」と言う人と、障害を持った人を「頑張らせない」「無理させない」「理解と社会が変わることが大事」という主張をする人とは、根っこが同じような気がするのです。
つまり、障害=不幸、障害のあるなしが幸不幸へとつながる、という考えが根本にある。
障害があって良かった、幸せになれたと言う人は、わざわざ「障害」をつけて言うくらいだから、裏を返せば、障害があることで自分は不幸になったという想いがある。
「頑張らせない」も同じことで、障害を持つことは不幸だからこそ、それ以上、無理をさせて不幸にしてはならない、という想いがあると読みとることができる。
障害が不便さだと捉えていたら、良かったと思うこともないだろうし、そのままでいろとも思わない。
不便さがあれば、それを解消したい、治したいと思うのが自然な感情だといえます。
障害というものをどう捉えるか?
特に発達障害の人の場合、神経の発達に、もっと言えば、発達過程に不便さの根っこがある。
神経の発達過程に不便さの根っこがあるのなら、神経発達を促せればよいのです。
神経は全身に張り巡らされているのだから、身体を動かすことにより刺激を与え、発達を促す。
とってもシンプルなことです。
しかし、障害を“不幸なもの”と捉えた時点で、遠慮が生まれ、見て見ぬふりが生まれ、「私は、あなたは不幸ではないよ」という洗脳が必要となり、挙句の果てに接待が始まります。
私は障害という不便さを治したいと思います。
そして、不便さを治すお手伝いはしますが、幸せを掴むかどうかは、私の仕事ではなく、その人自身の課題だと考えています。
不便さを受け入れるかどうかは、その人の考えによりますが、私は不便さを治した方が幸せに近づいていくような気がします。
不便さは、個性ではなく、治す対象です。
「この障害があったおかげで、幸せになれたんです」
と言う当事者の人がいます。
でも、「この人は、心の底から、本心で言っているな」と感じる人には出会ったことがありません。
自分自身を騙すのに精一杯、そう言い聞かせることで保っている、そんな雰囲気を感じます。
その発言と実生活のギャップから負け惜しみに聞こえることもあります。
上記と同じような発言に「障害は不便だけれど、不幸ではない」というものがあります。
こちらの発言には、私も共感することができます。
学生として、施設職員として、教員として、支援者として、障害を持った人達と関わり、不幸な人達だとは思ったことがありません。
しかし、いつも障害とは彼らの生活を不便にするものだと思っていました。
障害があろうがなかろうが、幸せな人もいれば、不幸な人もいる。
だけれども、障害があることで確実に言えることは、そこに不便さがある、ということだと私は考えるのです。
「障害は不便なもの」と捉えているからこそ、私はその不便さを取りたい、と思います。
だから、その不便さを取る方法、治すという方向へと歩んでいます。
本人にも、親御さんにも、育て直し、発達を頑張ってもらうのは、不便さを治したいから。
不便さが治ったあと、何を学び、何を選択し、どう生きていくか、幸せを掴むかどうかは、それこそ障害に関係なく、個人にかかっているのです。
「障害を克服する」ですとか、「障害がある子が頑張る」ですとか、そういうのにネガティブな反応を見せる人達がいますが、私には理解ができません。
不便さを克服するために努力したり、頑張ったりすることのどこがいけないことなのでしょう。
「障害を持った人を頑張らせるのは、かわいそうだ」と言う人もいますが、不便なままで生きろ、という方がよっぽどかわいそうなことだと思います。
「障害があるのだから、周りが理解し、社会が変わることが大事」という主張をする人も多いですが、それだと本人の内側にある不便さは、一向に解消されません。
「障害は本人の内側にあるのではなく、社会との間にあるのだ」と言いますが、過敏性も、疲れやすさも、無意識な動きが難しいのも、社会がどうなろうが変化はないでしょう。
発達の遅れやヌケは、完全に個人の課題だといえます。
個人の課題を解消するのは、社会でも、理解でもありません。
青色の建物をいくら見ても、睡眠障害は治らないのです。
このように考えると、障害があることで、「良かった」「幸せになった」と言う人と、障害を持った人を「頑張らせない」「無理させない」「理解と社会が変わることが大事」という主張をする人とは、根っこが同じような気がするのです。
つまり、障害=不幸、障害のあるなしが幸不幸へとつながる、という考えが根本にある。
障害があって良かった、幸せになれたと言う人は、わざわざ「障害」をつけて言うくらいだから、裏を返せば、障害があることで自分は不幸になったという想いがある。
「頑張らせない」も同じことで、障害を持つことは不幸だからこそ、それ以上、無理をさせて不幸にしてはならない、という想いがあると読みとることができる。
障害が不便さだと捉えていたら、良かったと思うこともないだろうし、そのままでいろとも思わない。
不便さがあれば、それを解消したい、治したいと思うのが自然な感情だといえます。
障害というものをどう捉えるか?
特に発達障害の人の場合、神経の発達に、もっと言えば、発達過程に不便さの根っこがある。
神経の発達過程に不便さの根っこがあるのなら、神経発達を促せればよいのです。
神経は全身に張り巡らされているのだから、身体を動かすことにより刺激を与え、発達を促す。
とってもシンプルなことです。
しかし、障害を“不幸なもの”と捉えた時点で、遠慮が生まれ、見て見ぬふりが生まれ、「私は、あなたは不幸ではないよ」という洗脳が必要となり、挙句の果てに接待が始まります。
私は障害という不便さを治したいと思います。
そして、不便さを治すお手伝いはしますが、幸せを掴むかどうかは、私の仕事ではなく、その人自身の課題だと考えています。
不便さを受け入れるかどうかは、その人の考えによりますが、私は不便さを治した方が幸せに近づいていくような気がします。
不便さは、個性ではなく、治す対象です。
知的障害は、とりのぞけますか❓
返信削除ふくおか啓子さんへ
削除申し訳ありません。
この一文だけでは質問の意味がわかりませんでした。
もしかしたら、質問ではないかもしれませんが。
「知的障害を取り除く」というニュアンスが、私は掴めません。
発達障害もそうですが、障害を”取り除く”というのは当てはまらない言葉だと思いますし、取り除くことはできないと思います。
知的障害は、別個にある存在ではなく、本人の状態のことを指します。
同世代と比べて知的に遅れがある状態ですので、身体を、脳を育てることが支援になると考えています。
発達障害の人が発達していくように、知的障害を持つ人も成長、発達していきます。
取り除くべき対象は、本人の成長、発達を阻害するものだと思います。
身体が緊張しており、そのために生活や学習に支障が出れば、その緊張を取るのが支援になります。
睡眠が乱れることが、一晩寝ても回復できないことが、次の日の勉強や仕事に影響を与えているのなら、それを治し、より良く成長、発達できる状態を作っていくのも、困難を取り除くことになると思います。
不器用さが、手の目の協応が不安定なのが、追視ができないのが困難の根本なら、そちらを取り除くよう発達援助をすれば良いと思います。
私は、発達障害も、知的障害も、状態の集合体、総称だと捉えています。
ですから、発達障害も、知的障害も、本人が抱えている困難で治しやすいところから治していきます。
1つ知的障害という状態があるのではなく、知的障害と呼ばれるような困難さ、課題がいくつもあるので、その複数あるものの中から1つずつ治していくというイメージです。
そして、そういった積み重ねが、本人の生きやすさと、成長、発達につながり、いつしか障害と呼ぶまでない状態になっている、というのを目指しています。
知的障害、発達障害を持ちつつも、働いたり、豊かな生活を送ったり、幸せだと感じたりされている方達もいますので。
私の答えは、「知的障害は取り除けません。でも、知的障害と呼ばれる症状の一つひとつに目を向ければ、治していけるところも多々あると思いますし、治る症状を増やしていくことが大事な支援だと考えています」です。