脊髄反射する人が、問題の本質を見えなくする

支援学校の高等部の生徒さんが、部活中に熱中症になった、とニュースを見ました。
大会前の練習中と言うことで、出場できない状況になってしまい本人も無念さがあるとは思いますが、一日も早く回復してほしいと願っています。


このニュースを知り、私は違和感を感じました。
何故、ここまで大きく報道されるのでしょうか。
夏の熱中症は、珍しいことではありません。
これは、支援学校で起きたことだから、障害を持った子が熱中症になったから、ここまで大きく取り上げられるのでしょうか。
そうだとしたら、そこにあるのは「障害を持った子を頑張らせるのはかわいそう」「無理させてはいけない」「自分たち(一般の人)より、弱い存在だ」という偏見でしょう。
「障害児は真綿にくるんで」という発想と同じ。


また、「“罰”として追加のランニング」に反応しているとしたら、それも過剰だと思います。
本人が嫌がるのを無理やり走らせた、体調不良を訴えたのに、それでも強要した、というのなら、本当の罰であり、問題だといえます。
しかし、自ら意思表示をして、走ることを決めています。
表現の仕方は「罰」かもしれませんが、苦手な部分を補って練習するのは、どの部活でも、どの年代でも行っていることです。
そもそも、この生徒さんは、運動部を選択しているのです。


ただ先生にまったくの落ち度がなかったとは考えていません。
どこまで、この生徒さんのことを知っていたのか、そこに至らなさがあったと思います。
自ら「走る」と言っているけれど、きちんと自分のことを把握して表現できているのか、また危険が迫ったとき、すぐに表現できるのか、自ら回避することができるのか、体力面ではどうなのか。
それに伴って、目標値より43秒遅れたから43周、という指導の雑さも問題ですし、10キロ走れない段階の体力の人に、走る以外、走るための準備段階の練習、指導も必要だったのでは、と思います。


こういったニュースが流れると、「うちの子も」というように脊髄反射する大人がいます。
またそういった大人によって、大きな問題が起きたかのように、あたかも学校が、ランニング自体が悪いことのようにまき散らされます。
そして、「批判」と「責任」に過敏に反応する学校は、学校内でお達しが出され、「30度以上は、ランニング禁止」「ランニングは、5周まで」「部活動は、連続して1時間以上しないこと」などが決まっていく。
結局、今回の件の本質は、部活の顧問のアセスメント不足、管理不足に不備があったということ。
それなのに、部活動で、運動で身体も、心も、脳も育てている多くの生徒たちの権利と機会を奪うことになってしまう。


一人で怖がる分には、何も問題はありません。
でも、怖がりの人は過剰に反応し、しかもそれを周りに振りまく、それが問題だといえます。
何か問題が起きれば、「同じことが起きたらどうするんですか!?」と息を巻く人。
それに対し、日頃から根拠を持って指導していれば、毅然とした態度で突っぱねられるのに、揺らいでしまう教育現場。
こういうことの繰り返しが、「無理をさせるな」「学校内で問題は起こすな」「何事もなく、卒業させるのが目標」という土壌を作ってしまう。
最終的には、子ども達が十分に学べない、将来につながるような成長ができない…が、生徒ではなく、お客様にしてしまうのだと思います。
社会は、卒業生をお客様として扱ってはくれません。


「暑い日は、うちの子にランニングをさせるな」
これは『個別化』とは言いません。
ただの我がままであり、私を、私の子をお客様扱いしろ、という意味です。
学校にはカリキュラムがあり、それぞれの環境があり、それに合わせて教育がなされていく。
そういった決められた範囲とベースの上で、個々に応じた教育がなされるのが、個々に合わせた教育です。
最初から、「何を学ぶか、何を学ばないかをすべて決めます」というのは、個別化ではなく、孤立化になりますので、どうぞ、ご自宅で教育なされたらいかがですか、状態です。
自分で部活に入り、走る選択をしたのなら、その中で本人がしっかり成長できるように導くのが、個別化だといえます。


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