支援者が評価されるとすれば、2つしかない

「早期から療育してきたのに…」「何年間も、療育機関に通ってきたのに…」、一向に改善がみられない、課題が解決しないままでいる、といった場合があります。
その理由は、そこの療育が、子どもさんに、子どもさんの発達のニーズに合っていなかっただけ、というシンプルなもの。
しかしかながら、親御さんの中にはそう思わない人が少なくなく、「我が子の障害が重いから、改善や解決が見られないんだ」「ゆっくりしか成長できない子なんだ」と捉えるのです。


子ども自身、発達障害があろうがなかろうが、発達、成長する力を持っています。
ですから、基本的な栄養や睡眠、心身の安全が守られていれば、自然と伸びていくもの。
支援者が仰々しく、「私達の支援でここまで伸びた」なんて言うことがありますが、本人の発達の流れから見れば、ただ単に本人の持っている発達の力で進んだだけ。
支援者が関わろうが、関わらまいが、「それくらいは伸びるよね」というのが少なくありません。
第一、週に数時間関わっただけで、良いも悪いも、変化を与えられるわけはないのですから。


支援者が評価されるとすれば、2つしかありません。
本人の発達を堰止めているものを取り除いたとき。
具体的に言えば、発達のヌケを埋める、本人の誤学習をぶった切り、修正する。
もう一つは、本人の持っている発達の力、スピードよりも加速させれたとき。
「発達の流れからいって、自然とこれくらい発達するだろうな」という地点より先に、より早く進んだ場合、良い後押しができたと評価されて良いと思います。


つまり、あの支援者と関わって、「止まっていた発達が動き出したな」「発達の大きさ、スピードが変わったな」という実感を得られなければ、あまり意味がない、ということ。
「公的な機関だから」「有名な先生だから」「一回通ったら、途中で止めにくいから」「どうせ無料だし」というのは、言っちゃあ悪いけれども、親御さんの趣味嗜好。
療育を受けるのも、支援を受けるのも、子どもが主体であるのですから、子どもにとって効果があるかないか、可能性を広げるものか、という視点で考えなければなりません。


「療育に通って効果が得られないのは、我が子が重いから」というのは、支援者にまんまと洗脳されてしまっています。
「障害が重いから効果が出ない」のでしたら、支援者も、療育も、そもそもが必要ないということになります。
障害が重い子に何もできないのなら、通う必要がないのです。
じゃあ、何をしに行っているの?ですね。


障害が軽くても、重くても、症状を改善し、より良く発達、成長させるために支援者がいて、ほら、早期診断、早期療育といっているんでしょ。
それに、そもそも障害が軽い、軽度だと言っていた子ども達だって、療育機関に通えば通うほど、ギョーカイの支援を受ければ受けるほど、障害者っぽくなっていき、特別支援の世界に留まることが多い現実。
大学出た若者に、福祉的就労させて喜んでいるレベルです。
生活面だって、作ったグループホームに住まわせて、「はい、自立です」と言うのです。


ですから、「障害が重いから」は、自分たちが責められないように先手を打っているだけの話。
少しでも成長が見られれば、本人の持っている発達、成長する力には触れず、「自分たちの療育、支援のおかげ」。
もし変化が見られなければ、「それは障害が重いから」となる。
挙句の果てには、「障害受容できていないね、お母さん」と責められる始末。
そんな療育、支援を受け続ける必要、意義はどこにあるのでしょうか。


ある親御さんが、専門機関に通っていたときの話をしてくれました。
うちの子が定期的に通っていたとき、大きいお兄ちゃん、お姉ちゃん、成人した本人とその親御さんの姿をたくさん見てきた、と。
その姿を見て、「ここを利用するのは止めよう」と決心がついた、と言っていました。
つまり、ここに通い続けても、何年療育を受け続けても、改善、解決はしないと悟ったのです。
様々な世代、若者、大人たちを見てきて、障害の重さが理由ではなかったことに気がつけたそうです。


大事なのは、本人の持っている発達の力を加速できるかどうか。
その発達の後押しができるのは、親御さんだと思います。
よって無条件に療育機関や支援者に頼る必要はないのですから、ちゃんと子どもの発達、成長を加速させられているか、という視点で判断してもらいたいと思っています。

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