問題を起こすのは障害くん!?
問題が起きたとき、問題を起こしたとき、障害が擬人化されることがあります。
「この子には障害があって…」
「本当は、問題を起こそうと思っていなかったんだけど…」
中には、迷惑をかけられた方に向かって、「あなたの〇〇という言動が、本人に誤って伝わったかもしれない」などと言うことも。
あたかも、障害という本人ではない何者かが、そうさせているような雰囲気を出します。
問題を起こす主体を本人から切り離すこと。
本人ではなくて、障害が問題を起こさせているとすること。
これを支援者がやるのなら、それは接待であり、本人や家族がやるのなら、それは責任転嫁です。
特別支援の世界では、あくまで本人、そして家族は、お客様です。
ですから、加害者側だったとしても、「一番困っているのは、一番苦しんでいるのは、本人なのです」と言います。
いやいや、一番困っているのも、一番苦しんでいるのも、被害を受けた人。
自己肯定感がどうのこうのと言っていますが、結局のところは、お客様の気分を害さないようにしているのです、加害者を障害くんのせいにすることによって。
今までにも、問題を障害のせいにする本人や家族と関わってきました。
そういう人たちに共通しているのは、問題がいつまで経っても直らないこと。
問題を自分から切り離すこと、問題を起こさせているのが自分以外であること。
そう思うことにより、今、ラクでいられることを選んでいるように見えます。
また同時に、「問題を誰かが解決してくれる」というような受け身の姿勢も見られます。
話をしていて、自分の問題なのに、どこか他人事のような雰囲気を醸し出すというのは、主体性が育っていない人であり、接待慣れしている人なのだと思います。
世の中の切り取り方の違い、想像のズレ、衝動性などが、問題とつながることもあります。
しかし、そうだとしても、問題を起こすのは、その人なのです。
問題を本人から切り離してしまうと、問題のきっかけになるようなことを排除する、刺激にならないように配慮するというように、周囲が気を使う対処療法が中心になってしまいます。
対処療法では、問題は解決しないといいますか、もともと問題を根本から解決しようとしていない、できないのです。
ですから、本人や家族が今、ラクのために、自分から問題を切り離したとしても、対処を求めるばかりで、いつまで経ってもラクにはなりません。
障害があろうとなかろうと、問題を起こしてしまったら、それを自覚し、責任を取り、二度と同じ過ちをしないように直していくこと。
これは、本人が主体的に行動しなければならないことです。
問題の芽は、自分の内側に存在しているのですから、自分の手で摘むしかないのです。
施設や教育現場で、障害を持った人の問題行動に心身共に傷ついている職員達がいます。
そういった職員達を苦しめているのは、経営者側、現場ではない講演や執筆、相談で仕事をしている側の「問題を起こしているのは、本人ではなく、障害である」「問題を起こす本人が一番苦しんでいる」というセールストークだといえます。
これを信じてしまう職員は、自分の腕のなさを嘆き、自分が我慢することこそ支援だというように捉えてしまいます。
それを呑みこめない職員、つまり、問題を起こす人を嫌だと思う、嫌いだと思う職員は、障害を持った人を嫌っている自分は、この仕事に向いていないと去っていくのです。
問題行動を直すには覚悟がいります。
一番は本人が、そして携わる人間も。
今までにも、現在進行形でも、問題を持った人と関わっています。
問題を本人の内側にあるとした時点で、支援する側の腕が問われます。
また責任も生じます。
ですから、覚悟がいる。
でも、本人とともに、携わる人間も覚悟がなければ、問題は直ってはいきません。
一般の人であっても、家族であっても、学校の先生や施設の職員であっても、傷つく人が出て欲しくない。
そう思いながら、本人には覚悟を持つように伝え、自分自身も覚悟をもって関わっています。
「この子には障害があって…」
「本当は、問題を起こそうと思っていなかったんだけど…」
中には、迷惑をかけられた方に向かって、「あなたの〇〇という言動が、本人に誤って伝わったかもしれない」などと言うことも。
あたかも、障害という本人ではない何者かが、そうさせているような雰囲気を出します。
問題を起こす主体を本人から切り離すこと。
本人ではなくて、障害が問題を起こさせているとすること。
これを支援者がやるのなら、それは接待であり、本人や家族がやるのなら、それは責任転嫁です。
特別支援の世界では、あくまで本人、そして家族は、お客様です。
ですから、加害者側だったとしても、「一番困っているのは、一番苦しんでいるのは、本人なのです」と言います。
いやいや、一番困っているのも、一番苦しんでいるのも、被害を受けた人。
自己肯定感がどうのこうのと言っていますが、結局のところは、お客様の気分を害さないようにしているのです、加害者を障害くんのせいにすることによって。
今までにも、問題を障害のせいにする本人や家族と関わってきました。
そういう人たちに共通しているのは、問題がいつまで経っても直らないこと。
問題を自分から切り離すこと、問題を起こさせているのが自分以外であること。
そう思うことにより、今、ラクでいられることを選んでいるように見えます。
また同時に、「問題を誰かが解決してくれる」というような受け身の姿勢も見られます。
話をしていて、自分の問題なのに、どこか他人事のような雰囲気を醸し出すというのは、主体性が育っていない人であり、接待慣れしている人なのだと思います。
世の中の切り取り方の違い、想像のズレ、衝動性などが、問題とつながることもあります。
しかし、そうだとしても、問題を起こすのは、その人なのです。
問題を本人から切り離してしまうと、問題のきっかけになるようなことを排除する、刺激にならないように配慮するというように、周囲が気を使う対処療法が中心になってしまいます。
対処療法では、問題は解決しないといいますか、もともと問題を根本から解決しようとしていない、できないのです。
ですから、本人や家族が今、ラクのために、自分から問題を切り離したとしても、対処を求めるばかりで、いつまで経ってもラクにはなりません。
障害があろうとなかろうと、問題を起こしてしまったら、それを自覚し、責任を取り、二度と同じ過ちをしないように直していくこと。
これは、本人が主体的に行動しなければならないことです。
問題の芽は、自分の内側に存在しているのですから、自分の手で摘むしかないのです。
施設や教育現場で、障害を持った人の問題行動に心身共に傷ついている職員達がいます。
そういった職員達を苦しめているのは、経営者側、現場ではない講演や執筆、相談で仕事をしている側の「問題を起こしているのは、本人ではなく、障害である」「問題を起こす本人が一番苦しんでいる」というセールストークだといえます。
これを信じてしまう職員は、自分の腕のなさを嘆き、自分が我慢することこそ支援だというように捉えてしまいます。
それを呑みこめない職員、つまり、問題を起こす人を嫌だと思う、嫌いだと思う職員は、障害を持った人を嫌っている自分は、この仕事に向いていないと去っていくのです。
問題行動を直すには覚悟がいります。
一番は本人が、そして携わる人間も。
今までにも、現在進行形でも、問題を持った人と関わっています。
問題を本人の内側にあるとした時点で、支援する側の腕が問われます。
また責任も生じます。
ですから、覚悟がいる。
でも、本人とともに、携わる人間も覚悟がなければ、問題は直ってはいきません。
一般の人であっても、家族であっても、学校の先生や施設の職員であっても、傷つく人が出て欲しくない。
そう思いながら、本人には覚悟を持つように伝え、自分自身も覚悟をもって関わっています。
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