「支援級へ」が雑過ぎ

この頃、支援学級への勧め方が雑になったような印象を受けます。
もうちょっと昔は、自分のクラスで頑張らせようとする先生も多かったし、塾や家庭教師、家庭学習などを勧めて、学校以外の機会で学力の遅れを取り戻させようとしていた気が…。
でも、近頃は、ちょっと学力で遅れが見られたら「支援級へ」となるし、授業中、フラフラや友だちとのトラブル、学校を休みがちも、全部「支援級へ」。


意地悪な見方をすれば、「多様な学び、ニーズ」という文言を利用して、ただ学級の人数を減らしたいだけじゃない、と思っちゃいますね。
「とにかく支援を受けましょう」という意味ではギョーカイの啓発活動は目的を達成してる。
だからこそ、学校のみなさん、「負けるなよ」「騙されるなよ」「教育をやれよ」「福祉になるなよ」と言いたいですよ。


事業名に「塾」という文字が入っていたり、事業の形態が家庭教師なので、「支援級を勧められました…」「通常学級で学ばせたいです」という依頼がコンスタントにきます。
私の個人的な意見としては、きちんと学力が身につくなら通常級でも、支援級でも、良いと思っています。
でも、実際にお子さんとお会いすると、通常級で学んでいった方が良いと思う子ばかりです。
だって、その子自身のニーズとして個別対応、個別支援が浮かんでこないから。


昨年、LDという診断を受けた子どもさんの相談がありました。
確かに、授業にはついていけてないし、テストの点数もよろしくない。
読むのも苦手だし、書くのも苦手。
でも、テストの答案に書いてあった「なまえ」の文字を見ると、きれいな文字で書かれていたんですね。
これって書くのが難しいんじゃなくて、書く練習が足りないだけじゃない。
そこから毎日、書く練習をしてもらいました。
同じように教科書や本の音読も。
そしたら、ちゃんと書けるようになったし、読めるようになった。
テストの点数も上がったので、それ以降、支援級の話はなくなったし、私の支援も終了です。


私が助言したことは、何も特別な内容ではありません。
字が書けないから、毎日、書く練習をした。
読むのが苦手だから、毎日、音読をした。
ただそれだけ、当たり前のこと。
それを診断基準を満たすからって「LD」とつけた医師も雑だし、「LDなら通常級は無理」と考えた教師も雑。
書く練習をしたけれども、それでも文字が書けない。
読む練習をしたけれども、それでも読むことができない。
いろんな個別な対応、工夫をしたけれども、やっぱりできない。
そこで、「もしかしたら、文字をきちんと捉えられていないかも」などと機能的な問題を疑う。
というのが、自然だと思いますが。


ギョーカイの啓発は、「支援を受けましょう」ばかり。
でも、強調するのは、もっと本質的な部分だと思うのです。
支援が必要な人と、そうではない人の違いこそ、社会に広く伝えるべきことでしょう。
そうしないから、医師も、支援者も、学校も、支援を利用することばかりに目がいってしまう。
さっきのLD(と診断を受けた)の子、お母さんが違和感を感じなければ、主体性がなかったら、そのままLDとして歩んでいったんです。
支援級に行って、本人のニーズとは異なった教育を受けていた可能性があったのです。
まだ子どもとは言え、一人の人間の人生を左右しかねない事象をみんな雑に扱い過ぎ(怒)


今までの経験から、勉強&練習不足以外にも次のような理由が考えられます。
乱れた生活習慣。
睡眠不足。
偏った食事。
テレビやDVDの観過ぎ。
長時間のパソコン、ゲーム、スマホ。
夫婦の不和。
落ち着かない家庭環境。
いじめ。
運動不足。
身体、動きの未発達、ヌケ。
たばこ。


学習に遅れ、集中力の低下、落ち着きの無さ、衝動的な行動などは、脳と関係していること。
脳を育む段階の子どもたちなら、良い影響だけでなく、悪い影響も受け取りやすいのです。
それくらいデリケートな脳をもつ子ども達。
①「子どもに悪影響を及ぼしていることはないだろうか?」と考え、それを絶つこと。
②「遅れを取り戻す方法、成長できる方法はないだろうか?」と考え、その方法を実践すること。
③そして、それでも課題が解決しないのなら、その子の機能的な問題に意識を向けていけば良いのだと思います。
①②をすっ飛ばすのは、雑な仕事だといわれても仕方がありません。


このブログに書いたことは、専門的な内容ではなく、自然に思い浮かぶ内容です。
ギョーカイの啓発のせいで、学校と親御さんが惑わされているだけです。
私が訪問し、偉そうに言うべき内容でも、お金を頂いてやる内容でもありません。
勉強に遅れが見えるのなら、勉強する。
一般的な勉強の仕方で成果が出ないのなら、その子に合わせて工夫する。
子どもに悪影響を及ぼすことは避け、より良く育つ環境を整える。
勉強ができる段階、準備ができていないのなら、その部分を補い、育てる。
「特別支援」という言葉が生まれる前から、親子の間で、学校と生徒の間で、自然にやっていたこと。
人工甘味料みたいなギョーカイの言葉に慣れてはいけません。

コメント

  1. 親や他人の意見ではなく子供が過ごし易いなら支援級だって支援学校だっていいじゃない

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    1. そのようには思いませんね。
      もし“過ごし易い”が基準になってしまうと、勉強したくない子、集団が苦手な子、そのクラスが嫌な子は、みんな支援級、支援学校に行くことになります。
      そもそも学校は、過ごし易さを求める場所ではなく、学ぶ場所。
      過ごし易さだけで、支援級、支援学校へ行っていたら、本当に個別で、丁寧な学びを求めている子ども達に教育が届かなくなってしまいます。
      市の福祉課で暴れて、無理やり支援サービスの受給をとってしまうような輩と同じことをしてはなりません。

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